お答えします!
QA
宗教に関すること、それ以外でも結構です。 ”こんなことは聞けない”そんな質問は意外と皆さんも知りたがっています。
ご質問やお聞きになりたいことを、
メール下さい。 
今までの、質問 Q&A
No,1 平成15年11月25日 〔質問〕宗教には、たくさんの神様がいますが、まず仏さまと神さまでは、なにが違うんですか?
No,2 平成16年2月10日  〔質問〕お彼岸について・六波羅蜜多とはなんですか?
No,3 平成16年5月18日  〔質問〕お盆の行事とは?法筵寺では、新たな試みで行っているとのことですが?
bS 平成21年3月4日  〔質問〕成仏とはどういうことですか。実生活ではピンときませんが?


bS平成21年3月4日

〔質 問〕成仏とはどういうことですか。実生活ではピンときませんが?
      
「成仏・じょうぶつ」・・・
      日本で、一般的な会話で「成仏」と聞くと、「死」を連想します。
      上海へ出張中、ある有名な寺院へ足を伸ばしました。
      そこで色々質問攻めにしたところ、
      中国で一般に成仏は、悟りを開く、という意味を持ち、死という意味合いは持たない、ということが分かりました。
      死とは、霊界へ行くことだから、成仏という発想が日本なのでしょうね。
 

〔お答え〕 そのとおりですね。
      あくまで、悟りを開くことが成仏であり、死んで成仏するというのは、どうも芝居の中で使われ始めたようです。・・・時代
      劇などで無残に切られて死んだ人に対し、合掌して「迷わず成仏してくれ」と言ったセリフからと聞いた事もがあります
      が、定かではありません。
      しかし、こういう表現を使うので、ほとんどの人は、死んだら成仏する、出来ると誤った知識になったのだと思います。

      
〔成仏〕とは、仏になる。と読めますが、仏なりとも読めます。
      悟りを開いた人とか、その状態(あらゆる苦しみから解放されて、全宇宙のすべてを理解した)とも言われます。
      でも、これでは、私たちには遠い世界であり、到底出来そうもない、身近でありません。
      ならば、もう少し分かりやすくしたら、どうかと思います。又、そんなに困難なことを要求されているのかとも思います。

      まず、仏なりであれば、仏になるのでなく、すでにそういう存在であり、そのことを思い出せばいい。ということです。なら
      ば、そう自覚することからはじめればいいと思います。
      又、仏教徒でなくても、宗教を信じていなくいても、人類は共通してそうであると言えます。ゆえに「仏」でも「神」でも
      「高次元意識」etcと表現してもいいでしょう。
      ちなみに、仏と神は、同義であります。〔1の質問で説明してあります。〕

    
  では、日常で、成仏しているとは、どういうことなのかです。

      例えば、お父さんお母さん、そして子供たちも、家族団らんで夕食をしているイメージを浮かべて下さい。
      家族みんなが健康で、それぞれが、今日一日のすべきこと(仕事、学業、家事など)を行い済ませ。
      みんな安定して暮らせる給料があり(経済の安定)、それぞれ全員が不安や恐れもなく、隠し事もなく心が安定してい
      て、しかも、互いに信頼している。  この状態であれは、他に望むことがあるかということです。

      この状況が、すなわち天国、ユートピア、浄土、極楽の相であり、まさしく成仏している状態と言えるのです。家族の中
      で、一人でも、そうでない人がいれば、そこには不安が生じ、すでに天国ではないのです。

      成仏とは、その状況をいうのであって、一人だけ悟りを開いて幸せということではありません。ゆえに、お釈迦様やキリスト
      様が、悟りを開かれたからといっても、決して退屈でもなければ、暇でもなく、それ以上に常に人々が幸せなることを願
      い、努力しておられるということです。この肉体をもって生活している地上では、菩薩(ぼさつ)という形で救済活動をして
      いるということになります。これは、私達と同じで、だれでもが出来ることなのです。

      
また、亡き方との関係においても、同じように言えるので、亡き方と自分がどのような関係であるかです。お互いがスムー
      ズな関係であるかです。互いに、心が安定して、感謝の心で「ありがとう」と言える状況ならば、成仏しているといえるの
      です。 ゆえに、例えば、自分は本家でないので先祖の供養については関係ない。それは、本家や長男が、仏壇や墓
      で供養しているから、亡き人は成仏しているから大丈夫というものではないということです。
      あくまで、自分自身と亡き方との関係であるのです。

      この世に生きている一つには、そういう尊き体験したいからではないでしょうか。
      素晴らしいこと、楽しいこと、感謝できること、嬉しいことこれらを、自分の周りもみんなが瞬時に体験している時こそ、成
      仏していると言えるのであり、そのことを確認したいから、日々のさまざま出来事に接しているのです。

      肉体がある間は、その感覚は一瞬かもしれませんが、それこそ、肉体が滅びた時(死というのでしょう)は、思い通りにい
      つまでも続けることができるのです。しかし、生きてる間に、そういう経験をしておくことも必要です。

      〔成仏〕を難しく考えれば、どんどんと難しくなります。又、こんなに簡単なの?と思われるかもしれませんが、本当は成
      仏とは、シンプルなものだと思います。
      あとは、自分に合う方法で試せばいいのでしょう。
      又、そのためにも、私たちの世界も用意されています。      


No,3 平成16年5月18日


〔質 問〕
お盆の行事について知りたいのですが?そして、法筵寺では、新たな方法で行っていると聞きますが?

〔お答え〕
そうですね。さまざま経緯から「お盆改革」を試みています。
      その前に、まず、「お盆」とはどんな意味からかお話しましょう。正式には「盂蘭盆・うらぼん」と言います。
     
〔質 問〕盂蘭盆という意味はなんですか?

〔お答え〕これは、お釈迦様の在世にさかのぼります。
     後に「仏説盂蘭盆経」というお経が作られましたが、その中に、お釈迦様のお弟子で、神通力(超能力)第一といわれてい
     た目連さんという方のお話ですが、ある時、目連さんの亡くなったお母さんは、今、一体どの世界にいるのか、あの世を探し
     ます。ところが天国界では見つからず、餓鬼の住む世界で発見をします。それを見た、目連さんは、鉢にご飯や水を入れて
     差し出すのですが、すべて火になってしまい、食べさせることが出来なかったのです。これは倒懸・とうけん(さまさまにつるす)
     といい、その苦しみは耐えがたきものでした。それを見た目連さんは、嘆き悲しみ、このことをお釈迦さまに相談されますと、
     「あなたの母は、罪深く、どうすることもできない」といわれます。
      しかし、なんとかして助けたいと願い、再びお釈迦様にお願いをすると「7月15日に、出家者たちの修行が明ける日がくる。
     その日に、大勢の高僧や一般の僧にも、食べ物や衣服や香油、寝具等を供養しなさい。そうすれば、その功徳によって母
     や、そこにいる人々も救われるであろう」と言われました。そして目連さんは大供養会を営み、母を救ったとあります。
     この供養会が、お盆の時、お寺で行われる
お盆法要の由来です。 ※施餓鬼の由来は別にあります。

〔質 問〕ちなみに、目連さんほどの高僧のお母さんですから、当然、天国へ行っていると思っていましたが、そうではないと知った時は
      驚きました。何故、お母さんが餓鬼界へ落ちたのです。その原因はなんでしょう?

〔お答え〕たしかにそう思います。しかし、すべては善因善果、悪因悪果の法則であれば、自らの撒いた種の結果です。では、
     一体、どんな事をされたんでしょうか。一説によると、お母さんは、どなたにも親切で、優しかったとあります。ただ一点、
     わが子に対しては、他の誰よりも優先的に、すべてわが子の為ならばと、それこそ他人の不利を考えず、そうしてきたとあり
     ます。親であれば、わが子可愛さに、どんな親でもしますよね、でも行き過ぎることは逆効果になってしまうのです。盲目の
     愛というのはそういうことでしょうね。

〔質 問〕では、今、行われているお盆の行事とは若干、意味合いが異なりますね?

〔お答え〕そうです。その後、インド、中国、朝鮮半島を経て、日本へ伝わってきた仏教は、さまざまな地域、習慣、風習が取り入れ
     られ、様々な形式、形態が入っています。さらに日本古来からの、神道系や各地の風習が、ごちゃまぜになって、お盆の行
     事が作られてきたもので、通常呼ばれている「お盆」という表現では、どの方法が正しいとか間違っていると言えないのです。

〔質 問〕近年、お盆といっても、せいぜいお墓参りです。お盆の行事そのものが風化してしまいそうですね?

〔お答え〕今までは、大家族でしたので、親から子へ孫へと代々「お盆」の行事が伝えられてきました。しかし、核家族や少子化、地
     方で行われるお盆の行事も形骸化しています。さらなる原因は宗教離れ、それにお寺さんも危機感がなく、ナントかしようと
     思う人、少ないですね。せっかくの古来から続いてきた良き宗教習慣は続けていきたものです。

〔質 問〕何か良き方法はありますか?

〔お答え〕法筵寺では、平成10年から「お盆改革」として、何点か試みています。
      まず、
「お寺の行事」と「家庭の行事」と分けました。
     
「お寺の行事」として、盂蘭盆会施餓鬼法要を営みます。
      これは、目連さんのお話を基本に、亡き方々には
「塔婆供養・とうばくよう」をお願いし、生きている人(参詣者)にも「施食
      ・せじき」
として、食べ物などを施して頂くようお願いしています。
      又、お墓(名古屋は境内にありません)には日を決め、皆さんとご回向申し上げます。さらに、
「精霊送り」は、お盆らしい
      行事ですが、実は行いません。昔は、お盆の行事をマコモで行い、食べ物等を包んで、川や海に流したり、お炊き上げを
      していましたが、今は、どの方法も環境問題で出来ません。であるならば、マコモを使った方法はやめて、家庭にある最上
      の器を使って供物を供えて頂くことにしました。(生前中、普通の食事をしていたのに、亡くなった後は、葦で作ったはしと
      か木のお皿になるのか分かりません。メニューも昔の書かれていた通り3日間計9食、作ったのですが、今時の人は食べな
      いような内容です。本来ならば、生前中好きだった食べ物の方がいいと思うのですが・・・。《当然これにはご意見がありそ
      うですね》でも、死後の世界のことを再認識していくことで、これらも変わるのではないかと思います。)
      そんな意味で
精霊送りをやめました。

    
「家庭の行事」として、本来なら7月か8月の13日から15日の間に、棚経として、ご回向に伺うのですが、特に、この地方は、
     7月ですので、ほとんど家族の人はいません。これでは、お盆といっても誰も意識しませんし、知らない内に終わっているという
     のがほとんどです。
      この期間にこだわらず、家族の人が集まれる日を
「お盆追善報恩の日」として、家族の人が集い、手作りの食事を最上の
     器で盛り、皆さんで(住職が伺い)、ご報恩のご回向を営むようにしました。もちろん、その意義を伝え食事をして頂ければ
     子供にも分かります。

〔質 問〕随分と変えられましたが、実際、檀信徒の方は行っておられますか?

〔お答え〕改革のご案内をして、5〜6年経ちますが、従来からの方法で行っておられる方は、そのまま続けて頂いています。
      この方法でという方は実施されています。又、新たに亡くなった方がおられるご家庭では、分かりやすいとのことで採用され
      ています。
       もちろん、お盆は歴史のあることですから、急には変えられません。やめてしまうことは簡単ですが、どうやって、その心を
      伝えていくか、今後は、さらに目に見えない世界やあの世のことが判明されていくでしょう。その兼ね合いもでてきます。
      なんといっても、
いずれ自分たちも、あの世へ行きます。その時、こうすれば良かったとも思うかもしれませんが、ともあれ
      「お盆」の行事について、このように考えて実行しています。

    



No,2 平成16年2月10日


〔質 問〕 お彼岸(ひがん)について・六波羅蜜多(ろくはらみった)とはなんですか?

〔お答え〕
まず、お彼岸について説明をしましょう。
      「暑さ寒さも彼岸まで」と昔から言われるように、彼岸というのは春と秋の2回、いずれも春分の日と秋分の日を中日として、
     前後三日間を言います。もちろん仏教からきている言葉です。

      
彼岸とは、梵語(ぼんご・古代インドの言葉)で、パーラミターを、中国で漢字に訳された時、「波羅蜜多・はらみった」と書
      き、これを「到彼岸・とうひがん」と訳したと言われています。
「到彼岸」とは、彼岸に到るという意味ですが、では彼岸とはな
      にかであります。

      仏教では、苦しみや迷いに満ちた世界を、娑婆(しゃば)とか、現世とか言いますが、此の岸(このきし)といいます。その苦
      しみや迷いを超えた、悟りの世界を、彼の岸(かのきし)といい、彼岸(ひがん)といいます。
      到彼岸というのは、迷いや苦しみがなくなり、煩悩を超越した世界・境地へ到るということになります。これが、彼岸といわれ
      る由来です。

      
又、この彼岸の期間に、仏道修行をすると、早く彼岸に到ることができると、仏道修行の重要性を説いていますが、この
      仏道修行とは何かというと「六波羅蜜多」ということになります。

〔質 問〕では、六波羅蜜多(ろくはらみった)とはなんですか?
      
〔お答え〕
六つの修行をいい、その内容は、自分自身を高め、さらに他人との人間関係を向上し、他人をも救うということです。
     
 1,布施(ふせ) 人々に、物質的・精神的に施しを与え、救っていこうとする姿勢です。
        例えば、
物施(他人に物を差し上げる)・顔施(笑顔を与える)・法施(教えを与える)などです。

      2,
持戒(じかい) 戒律を保つことです。人として守るべきルールを犯さないことです。
        例えば、「五戒」
 不殺生(むやみに生き物を殺さない)
                  
不偸盗(人の物を盗まない)
                   
不邪淫(みだりに交わない)
                 
 不妄語(嘘や詭弁を言わない)
                 
  不飲酒(酒に溺れない)

     3,
忍辱(にんにく) 耐え忍ぶ姿勢です。
        腹を立てたり、すぐにカッーとならない。耐えることは、すべてに通じる修行でありますが、焦りが禁物です。
        もう一つは、相手にどんな事を言われようが、耐えるのではなく、聞き流すということです。
        すべてを受け止めると、自分自身がその低波動と同レベルになります。

     4,
精進(しょうじん) 努力を重ねることです。
        目標を立て、一心に努力を積み重ねることです。不言実行も、一見良さそうですが、他人にもその成果を確認しても
        らうことで、日々の具体的な成果が表れます。

     5,
禅定(ぜんじょう) 精神統一をする。
        心が荒れていては、冷静な正しい判断はできません。水面が嵐のように波だっていては、大きな石(障害)が、来ても
        気が付きません。水面が鏡のようになっていれば、小さな石ころでも、すぐに気が付きます。反省ということも含まれてい
        ます。

     6,
智慧(ちえ) 真理を見極める。
        これは単なる知恵・知識ではなく、深いところから湧き出てくる叡智という意味です。
        
実は、この智慧を得るために、他の五つの修行があるのです。
        仏陀・悟りを開いた人とは、全宇宙の真理を体得したということです。目に見えない世界・時間、空間を超越した世界
        をすべて理解したということです。その境地には、不安も恐れも、苦しみもありません。
 
     この六つの修行を行うことにより、彼岸(悟りの世界)へ到達することができるとありますが、もちろん一度に出来ることではあり
     ませんし、何段も飛び越して、レベルアップするものでもありません。
     私たちが日常生活を行う中に於いて、気が付いたことから実行していくことが大切です。
     人生は、丁度、螺旋階段を登るが如く、一歩づつ上がっていくものであります。螺旋状ですから、同じ側面に何度も出会う
     事があります。しかし、前と同じ苦しみではないはずですし、又、楽しみもより楽しめるはずです。
     
 お彼岸の行事は、その時期だけ行うのではなく、常日頃の心がけと実行すべきことであります。



No,1 平成15年11月25日


〔質 問〕
宗教には、たくさんの神様がいますが、まず仏さまと神さまでは、なにが違うんですか?

〔お答え〕そうですね。たしかに日本では、神仏を併称しています。昔から、そうでしたから、考えたこともないと言う人がほとんどだと思
     います。あまり疑問が起きないことも不思議ですね。
    まず、
それぞれの宗教家は、どう考えてきたかです。
    1、仏教家は、仏が主で、神は従としてきました。
    2、神道家は、仏は異国の蛮神であるとしました。
    3、キリスト教系は、仏は人間であって神ではないと考えました。
     しかし、これはみなお互いの偏見であり、およそ宗教の信仰対象に現実の人間はいないはずです。みな霊として存在するも
     のであります。日本でも古来から霊として存在するものは、神霊でも、人間の霊であっても、動物の霊であっても、自然界の
    霊異なるものも、そのすべてを「カミ」と呼んできました。仏教における仏陀(悟りを開かれたお釈迦さま)は、すでに霊的存在で
    すから、本来ならば「カミ」と呼ばなければならないのに、「ホトケ」と言い表わしてきたために、ややこしい問題が起きたのです。

  では、そもそも「ホトケ」なる語源はどこから来たのか?
  
 「ホトケ」の語源については、様々な説がありますが、大別すると次のようです。
   
1、意訳説  仏教は糸のもつれを解き放つ、人の心を解放するという「ほどける」という意味をとって「ほとけ」と訳したとする説。
   
2、伝説訛音説 仏教が渡来した当時、仏教を反対する物部氏は、仏像を火に投じて焼いたが焼けなかったので堀に捨て
     た。後に聖徳太子が、その仏像を水中から取り拾い出してみると、不思議なことにまだほてり(暖気)が残っていた、それで
     「ほとけ」といった説。

   
3、伝音説  伝説訛音説に似た説で、昔、壷のことを「ホドキ」と呼んでいました。物部氏は仏像を壷の中に入れて難波の
     海に捨てた。後に聖徳太子が取り出したとされ、「ホドキ」の中から仏像が現れたので、やがて訛り「ホトケ」となった説。 

   
4、音訳訛音説 昔、蒙古では王を「ホトフ」といい、ラマの聖者を「ホトクト」といいました。いずれも敬称で、日本に伝わって
     「ホトケ」になった説。さらには、朝鮮半島から伝わった時に、仏陀の別訳である「浮屠」の下に「ケ」をつけ「フトケ」と呼んだも
     のが、そのまま、今日に伝わったという説もあります。その他、さまざまな説がありますが、インドの原音が訛って「ホトケ」となっ
     たこともあげられています。
      いづれも、根拠はあまりないようですが、原語は梵語(サンスクリット語)でほとんど書かれています。
      インドから中国へ渡り、漢字に訳されました。次に訳された時に問題はなかったのか検証してみます。

 
  では、なぜ、仏教が中国に伝わった時、「仏陀」が「神」に翻訳されなかったのでしょうか?
   これは、中国の神の概念と、インドの仏陀の観念とが全然一致しなかったことが原因します。
   1、中国の神は、霊的な知ることのできない、又、見ることが出来ないものを神としている。
   2、仏陀は、人間釈尊が覚りを開いて、その位に到達したので、知ることも見ることもできた。そのために、漢字の神の観念では
     取り扱えなかった。
   3、インドの仏教では、バラモン教の神である「梵天」「帝釈天」よりも、仏陀の方がはるかに高い地位にある。そのために「仏陀」
     を意訳する適当な漢字がなかった。さらに、そのために原音を写すにとどめた。
 
  
では、日本では、どうなのか。そして、果たして仏と神とは違うのか?
   1、日本と中国では、神の概念がかなり異なる。
   2、昔から、日本では人間の偉い人の霊を神として崇めてきた。(学問の神様として菅原道真など)
   3、中国の天や、キリスト教の神に近い観念も、仏教で説かれる法身仏の観念も「カミ」という言葉の中にある。
   4、日本語の「カミ」という表現には、広い解釈があって、必ずしも宗教的なことばかりにも用いていない。
     主人のことを「おかみ」と呼んだり、武蔵守、薩摩守の国主も「カミ」と呼んでいました。今でも、「おかみのお達し」という表現
     もあります。

   ゆえに、中国で訳せなかったブッタも、日本では「カミ」と訳しても差し支えないということになります。であるならば、本来は「上」と
   いう字が一番適切であるということですが、宗教的な尊称として「神」という字を当てはめてきたとあります。
   仏と神と、使い分けて使っていますが、どちらが上で下ということはありません。訳し方に問題があったとみる方が解決しそうです。
   表現の違いで混乱を招き、議論をされた方もいるのではないでしょうか。最もひどいのは、死んだ人をホトケと言いますが、
   これは全くおかしな表現の代表です。
   
    お経の中にも「如来秘密神通之力」とあり、「仏の神力をもっての故に」とありますから、やはり、神の力という表現が相応しい
   のでしょう。こうしてみると「仏」を「神」と呼ぶことには、なんら問題はないでしょうが、今更、変えるわけにはまいりませんから、この
   まま、今後もややこしく使われていくと思います。 
   いずれ、世界へ仏教が羽ばたき認められる時には、せめて、仏神の上下で争うのはやめましょう。
   
   尚、教学的な本尊観等や表現に付きましては次元が異なります。    
 〔参考文献・十字仏教〕