思うまま・独り言(2)
過去の分「独り言集」(1) 平成15年3月(No,1)〜平成17年12月(No,33) ご覧下さい
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最新の「独り言集」  
49.〔平成19年4月版・平成19年4月1日更新〕
身近に卒業、入学などがあると慌しさや緊張感があって、新学期を迎えたという気分になります。新入生や新社会人なられた方は、すでに新たなる生活が始まっていることでしょう。職場においても人事異動や、役職の交代など、しばらくはペースがつかめないかもしれませんが、「習うより慣れよ」との如く、実践しかありません。どんどんと自ら挑戦して下さい。

新学期早々、大学のオリエンテーション(説明会)にて、セクハラ(セクシャク・ハラスメント)についての講義があったと娘から聞きました。言葉には聞いていたものの、実際にはよく分からなかったので、この際と調べてみました。
資料によると、『「性的いやがらせ」のことをいい、広くは、「相手方の望まない性的言動すべて」をいいます。
又、セクハラとなるかは、あくまで平均的な女性がその状況で、そのような言動を受けた場合、不快と感じるかを基準に判断されます。とはいっても、特に繊細で不快と感じやすい人の場合でも、不快な言動が続けられた場合にはセクハラとされることもあり、快か不快かを決めるのはあくまで、そのよう な言動を受けている人ということになります。1997年、「男女雇用機会均等法」が改正され、新たに、職場におけるセクシャ ル・ハラスメント防止のための事業主(企業)の配慮義務が規定されました。』とありました。
具体的には、性的な冗談を言う。食事やデートに執拗に誘う。性的な体験談をしたり、聞いたりする。不必要な身体的接触をする。性的な強要をする。わいせつな写真や絵を掲示する。などのようです。職場においては、上司と部下の関係で起きる、
パワーハラスメントと呼ばれる地位や立場を利用したセクハラ、学校でも先生と学生という立場でのセクハラが問題となっているとのことです。
 法律として規定される以前や、社会的に取り上げられる前までは、どのような職場でも、そこに男女が存在し上下関係があれば、このような状況は無法状態で存在したと想像できます。しかし、同じような状況は続いていると思います。何故なら、このような行為は人間として本能の部分に関することだからです。同時に肉体として生きている以上は永遠に逃れる事のできない一つでもあるのです。その点をしっかりと見極めることが肝心です。本能のままであれば人格的向上はありません。なにゆえに生きているのかという、とても大きな課題に直面しますが、男女平等ゆえ、人類平等ゆえ、一人一人の意識向上、レベルアップをしていかなければ、これらの問題は根本解決とはならないでしょう。今、時代が求めていることは、そのような生き方、考え方ではないでしょうか。〔千葉県清澄寺・旭日が森に立つ日蓮聖人像 この地に於いて日蓮聖人は、今から75 年前の4月28日始めてお題目を唱えられ立教開宗宣言をされました。



48.〔平成19年3月版・平成19年3月1日更新〕
 私たちは、日付を見る時、計画を立てる時、当たり前のようにカレンダーを用いますが、平素、見ているのは新暦と言われるいわゆる西洋暦で世界共通だからです。
 しかし、旧暦を重んじる国や地域では、今年の正月・1月1日は2月18日でした。旧暦について詳しい事はあまり分かりませんので説明できませんが、地球の自転、公転、月との関係はあると言えます。月には満月や半月のように満ち欠けの周期があり、その周期の数え方は新暦と異なります。実際に旧暦では昨年7月を2回行っています。そのようにして調整されながら旧暦が伝えられていますが、季節の移り変わりや自然界の流れは旧暦の中に秘密があるのかもしれません。暖冬と言われた本年、寒さの中で行われる国府宮神社(愛知県)の「裸まつり」は3月2日に開催されます。本当の寒さや季節の変わり目はこの時期なのかもしれません。
 

 先日、NHKで「千の風になって」という曲を題材にした放送を見ました。この曲は、紅白歌合戦でも、又、多数の歌手によっても歌われヒットしましたが、この曲によって多くの人々が癒されたという内容です。歌詞は「私のお墓の前で 泣かないでください。そこに私はいません 眠ってなんかいません。千の風になって 大きな空を吹きわたっています(さらに続きますが)」このように始まります。番組では、特に、近年身近な人を亡くした家族や、高齢の親と生きていく中で、この曲によって癒され、勇気付けられ、再び頑張って生きようとする人々のドキュメンタリーです。取材された人々は、この歌詞やメロディーによって、改めて、死について正面から向き合うことができ、そして安心感が与えられたと言っています。又、作曲者の新井満氏は、今でも多くの人々から感謝の手紙を頂いていると語っていました。
 ところで、宗教者、特に仏教のお坊さんやお墓に関する人々は、この曲や歌詞について、どのように受け止め、どのように感じているのでしょうか。無論どのように考えようとも、思おうとも自由ですから、とやかく言う必要はないかもしれません。しかし、死について、又、その先々について一番身近な世界にいることも事実です。この曲に対し素朴な質問をされた時、どのように答えるかによって、その人の生死観や宗教観さえも変えるかもしれません。もちろん、質問される人の理解度や追求の仕方によっても答え方は異なるでしょうが、一般大衆の人々が、宗教と全く異なる世界で、死に対する考え方を学び、さらには現実として安心感や安堵感を得ていることです。宗教者の一人として、このような現実に対し、更なる価値観の変革を求められていることは必至です。「私のお墓の前で 泣かないでください。そこに私はいません 死んでなんかいません」この世とあの世を通じた世界をどうやって知らしめ、人々に安心立命の世界を伝えてまいりましょうか。〔香港の新年を祝う飾り物・今年は豚(猪)年〕


47.〔平成19年2月版・平成19年2月1日更新〕
 1月28日、恒例となった「開運節分会」を無事、盛大に開催することができ、今年は、お天気にも恵まれ、昨年より多くの方々に参詣を頂きました。年々僅かでも参詣される方が増加することに感謝しています。これも偏に、檀信徒の方々が、友人や親戚の方にお声を掛けて頂けるからです。
「広める・伝える」ということは何と言っても直接、お誘い頂くことが確実な方法です。こうしてインターネットを通じてご案内をしていますが、まだまだ浸透しきれていないのは否めません。求めることによって得られるのが情報ですので、常に微力ながらも、情報を提供していこうと思います。
今回は、HPを見て行事に参加された方もおられました。


それこそ、情報化社会に生きるということは、連日、様々なニュースを見聞します。どんな悲惨な事件でも、1件報道さ
れると不思議なくらい2〜3件は続けて起きています。バラバラ事件、近親者殺人、いじめ、虐待、自殺などあらゆる出来事も、必ずと言っていいほど続きます。ひとつには報道するから、真似をするという人が出てくるのだという意見もあります。たしかに、どんなことでもそうですが、実際は突然、事件を起こすのではなく、今までの経過の中に起きる要因があり、いつ引き金を引くのかというタイミングだけのことです。そういう意味では、ほとんどの人は常にそのような状態になっているといっても過言ではないと思います。ただ、そこまで実行しないだけなのかもしれません。
 この世で起きる現実は、だれが起こすのかというと、紛れも無く私たち自身です。私たちの思う、考えることが、そのまま現実化しているだけです。しかし、意外とこのことには目を向けません。
特に不幸な不運なことが現実化すると、ほとんど自分のせいせず、第三者、他人のせいにします。でも、自らがそのような現実を作り出したと反省すべきです。
 転んで出来たようなすり傷でも、戦争と言う出来事さえも、すべて人間の思いからです。未来が不安と嘆くよりも
未来を良くする思いに変えていけばいいことです。一人一人が、そのように思うことで人類の未来も変わることは言うまでもありません。ただ、この世というものは、学びのため、魂の向上のため、体験するためという目的もあるので、相対性に成り立っていることも事実です。ゆえに完璧を求めると矛盾が生まれて返って苦しみが増します。この世で生きている人生80パーセントの成功であれば合格ではないでしょうか。そうすれば自分も認めることができ、相手も認めることができます。そして、完璧さに於いては、この世が終わった後、誰しも公平に分かるのです。その時を楽しみにすればいいのです。〔千葉県中山法華経寺の「聖教殿」・日蓮大聖人の御真筆等、重要文化財が格護されています。毎年11月3日に一般公開されます。又、この隣では、日蓮宗大荒行堂が11月1日より2月10日まで開設されています。


46.〔平成19年1月版・平成19年1月1日更新〕
あけましておめでとうございます。
本年もお付き合いの程、よろしくお願い致します。
本年の干支は「亥・い」で、十干は「丁・ひのと」となります。干支に関する本から引用しますと、「丁亥」と書き、ひのとい、又は、ていがいと読みます。丁は、互いに対抗する勢力の衝突を現わし、季節でいうと4月から5月にあたり陽気であるが、下り坂になったところが丁で、盛りが過ぎたことを現わしています。
亥は木偏をつけた「核」で、起爆的エネルギーを持っていて「核の時代」にふさわしい暗示を富んだ干支である。丁と亥の両者があいまって、なにが発生するかわからない。起これば爆発的な事象を起こすのが「丁亥」であるとあります。
 年毎に干支や暦などを配当していく考えは、月日の流れに、様々な知恵を取り込んだ古代からの考え方ですが、世界中には、地域や環境、風土に応じた、その国々に準じた干支や暦のようなものがあります。いづれの良し悪しを問うのではありませんが、話題の一つとして語るにはいいかもしれません。決して暦によって人生が左右されるのでありませんし、まして人格を決め付けられるものでありません。

年頭に当たり、今年のテーマを考えました。これは、昨年の12月の初めから考えていたことですが、ここ数年間は、「身体や心の痛み」に対してテーマが掲げられていたように思います。ご相談に来られる方々を通じ、もちろん私自身の課題も含め、痛みに関する出来事に携わってきました。もちろん、痛みに関しては永遠のテーマかもしれませんが、丁度、螺旋階段を登るが如く、ある側面に差し掛かると、同じような課題に直面するのだと思います。しかし、螺旋ですので、同じ側面でも前とはレベルが異なります。ゆえに同じような問題で悩むことはありませんが、さらに高度な課題に取り組むということになるのでしょう。もちろん、苦しい事ばかりではありません。楽しい事も同じであります。意識の向上は常に掲げていることですが、特に、今年のテーマを「笑顔・笑い」としました。
仏教の教えの中にも、無財の七施と言って、布施行の中で「和顔施・わがんせ」と言う、優しい顔、笑顔を相手に施すことがあります。笑いとは、自らの健康を維持し、家庭の円満、人間関係の円滑化、それが経済の安定(お金に困らない)ことに繋がっていきます。もし、健康を害した時、たしかに不安になります。当然、病院へ行き診断を受け、ある程度、原因や治療法が分かります。その時点で、「私は○○の病気だ」と悩み続けるか、家族も同じように沈み込むのか。それとも原因が分かったから、「もう悩むのはよそう。くよくよするのはやめよう」と思うのかです。病気に限らず人生の問題も同じようなことではないでしょうか。まずは、何事も「笑顔・笑い」でまいりましょう。
境内に咲く、寒つばき


45.〔平成18年12月版・平成18年12月1日更新〕
平成18年もあと1ヶ月となり、そろそろ1年を振り返る時期になりました。
世間の出来事は新聞やTVが毎年行っていますので、時には、自分自身の事を徹底的に振り返ってみるのも必要なことです。自分自身を省みる時、そこにはさまざまな人間関係が存在しています。自分だけの問題もありますが、しかし、ほとんどは自分以外の第三者・誰かが関与しているはずです。しかも、その関係が深いほど、すなわち親子、夫婦、兄弟など近親者であるほど、そこに発生した出来事に対して反応は深まります。
苦しみや悲しみ悩みなど、これらが心の中できちんと整理されているか確認する事が、振り返る大切なポイントです。大抵は、出来事に対し反省や対処はします。二度と同じ過ちを犯さない、同じ失敗は繰り返さないと誓います。しかし、本当に心の底から、そのように対処されているかが重要なのです。
僅かでも思いが残っていたり、例えば、「本当はあの時、もっとこうすれば良かった。こうしておけばそうならなかったのに」こうした考えが残っていると、それはまだ未練があるということで、本心から納得していなということです。「たしかにあの時は、そうかもしれなかった。そうするしかなかった。しかし、その事で、今はこうして満足している」とプラス思考かもしれませんが、そういう考え方が大切なのです。
もちろんすべての問題に対し、今すぐに変えなさいと言う訳ではありませんが、2年、3年、5年と時間が経過した時には、そのように変えていけるものです。 
そして、世間で起きている出来事も、決して他人事ではないということです。一見、自分には関係のない、勝手にみんなが起こしていると考えがちですが、実はそうではないのです。何故なら同じ人類として、私たちの心(意識)の中には、同じような事を考え行動するという一面があるということです。心の奥底には共通した尊き想いがある反面、醜い面も持ち合わせているのです。ただそれが環境や状況に応じて、どの程度表れているかどうかの違いです。たしかに、一つの出来事に遭遇した時、毅然とした行動を取る人もいますし、またそうでない人もいます。何が違うのかと言えば、状況に対しての反応が異なるだけで、どちらがいいとか悪いとかは別問題です。ゆえに、あらゆる心の面を持っているのです。
仏教的に言えば十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏)という十種類の心の世界を誰でもが持っていて、その心の世界が現象化(表面に出ている)しているのが、この世の中といえるのです。十界については別の機会に詳しくお話しますが、まずは、どんな心の世界が出てきても、すぐその心を表面に出すのではなく一呼吸おいてから行動に移すことです。そうすれば、もう少し平安なこの世になります。
来年は、さらに、多くの人々に実践して頂く運動(ワンネスムーブベント)を広げていきます。
〔インドの夕日・ホテルの窓から(ムンバイ)


44.〔平成18年11月版・平成18年11月1日更新〕
 全国の公私立高校540校、83,743人このうち、2単位以下の不足者は61,352人(11月1日現在)。
これは、現在、高校3年生(来春卒業見込み)で、卒業の為の必修科目が未履修者の数です。今や、社会問題になり国会でも取り上げられいます。要するに、受験の為の勉強は一生懸命してきたが、受験に関係のない科目は勉強せずに今日まできてしまったということです。もう受験シーズンに入っています。推薦やAOでの受験者の中には合格も知らされる時期です。しかし、必修科目が満たされなければ卒業できません。なんとかして穴埋めしなければならないということであります。本来ならば、3年間で必修するものですが、大学受験と言う目標が大きく掲げられ、その為の時間配分になったということでしょう。
しかし、そのような現実でも、すべて履修している、させている学校や生徒も多く存在することも事実ですから、今更、勉強しなくてもいいとは言えません。結果的には、そのしわ寄せが今になって出てきたということでしょう。生徒にしてみれば、それでいいんだと思い今日まで来た訳ですから負担は大きいかもしれません。
でも、必要な知識を学ばず社会へ出て行くことも問題です。まして世界史という教科であれば尚更です。こうなったのは誰のせいと言いたくなりますが、それこそ社会全体の流れのなかで、徐々にこのような状況に皆が慣らされきたのでしょう。
決して、この問題のみならず、あらゆる出来事もそのようになってきていると思います。同じく学校の問題で、いじめによる自殺者が連日のように報道されています。遺書の中には、「この手紙が発見された時には、私は死んでいるでしょう。」と書かれているものもあります。本人の心境を察すれば苦しかったでしょうし、辛かったと思います。まして、残された家族はもっとやり切れない気持ちだと思います。その怒りや悲しみをどこへ向けたらいいのかと思います。
TV等では、学校の対応が悪いとか先生が悪いとか、たしかにそのような教師もいましたし、対処のあり方には問題もあるでしょう。だからと言って全面的に学校側の責任でもないはずです。ただ、公的機関の統計によると、過去7〜8年、いじめによる自殺者は一件もなかったということです。それは信じられませんが、仮に、そうだと認めてしまったら、教育者として失格、関わった上司も昇格の可能性はないということでしょうから認めたくはありません。
 一方、家庭の問題はどうなんでしょうか。いじめをする子、いじめを受ける子。この子たちの家庭には、一切問題はなかったのでしょうか。そんなことは報道されません。もちろんする訳がありません。でも、真実を知りたいのはどうしたら子供が上手く育てられるのだろうか。どうしたら悲しい思いをしなくてすむのだろうかです。もちろん、そんなことは言うまでもないことでしょうが、私はそのように思います。それでも、そのような側面から少しでも役に立てたらと思っていますし、それが私たちの役目でもあると思っています。いつでも私を使って頂ければ幸甚です。
〔秋の夕暮れ・蒲郡ラグーナ〕


43.〔平成18年10月版・平成18年10月1日更新〕
 先月末、安倍首相、並びに新内閣がスタートしました。どのような未来になっていくのはこれからですが、様々な面で影響を受けていくのも事実です。出来る限り平穏であるようにと願うのは国民すべてでしょうが、誰しもまず自分の利益を考えますから、すべて平等にと考えても、必ずしもそうならないのが現実の難しさと思います。
 安倍晋三新総理は、昭和29年9月生まれで私と同級生(私は昭和30年3月生まれ)となります。同級でありながら、片や一国の首相、方や・・・であります。今までは、総理大臣と言っても遠い存在でした。もちろん今でも変わりませんが、なんとなく、同じ年だと思うといろいろ考えてしまいます。もちろん、それぞれ役目も使命も違いますからどうってことはありませんが、もうそういう年齢なのかと実感しています。

 先月、毎年恒例となった七面山(ひちめんさん)の登詣団参が行われました。この七面山という山は1982メートルあり、山頂には敬慎院というお寺があります。お祀りされているのは、七面大明神(ひちめんだいみょうじん)又は、七面天女と称されています。《詳細は「七面大明神」で検索して下さい。
》日蓮聖人が晩年、身延山に在住されていた時、七面天女が出現され、それ以降、法華経を行する人々をお守りすると誓願され、後に守護神様としてお祀りされました。
場所は山梨県、日蓮宗の総本山身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)の西に位置しています。私の両親も、この七面山や麓で修行していた時期があり、そのご縁で当山にもお祀りされています。又、多くの日蓮宗寺院でもお祀りされています。 
 毎年、檀信徒の皆さんを募り参詣しますが、なにしろ、自分の足で登らなければなりません。50丁の道のりを平坦な道はなく、むしろ急な坂道の連続です。しかも曲がりくねっていて、一歩づつが確実に登っているという感じです。夏季は10分も歩けば一気に汗が吹き出てきます。山頂のお寺まで大人の平均で4時間前後かかりますが、私が学生の頃、1時間40分で登った記憶があります。でも、それはただ記録に挑戦しただけで、多くの人々は信仰の山として、お題目を唱えながら登る人たちもいます。しかし、なんと言っても体力は絶対に必要で、毎年、登っている人でも、年々体力の衰えを感じると言っています。逆に鍛えた人はそれなりに成果はあります。私も今年こそはとスポーツジムに通い体力を蓄え登詣しました。もちろん効果はありました。
 全国各地には、山岳信仰とか修験道などと信仰を中心とした山々がたくさんあります。自然界そのものが神であり、神の住まう所として崇められてきました。この七面山も江戸時代までは女人禁制でしたが、水戸光圀公(黄門さま)の母・養珠院殿お万様によって禁制を解かれたとあります。私たちは、もともと尊き魂であり、しかも誰でも救い救われる魂ですから、性別で差別する事そのものが人間の作った都合でしょうが、いずれにしても、肉体を持った人間界に於いての生きている間は、時には汗を流し肉体を使っての行(ぎょう)を行うことも体験の一つであります。来年も団参を開催します。又、個人でもお参り出来ますので、是非、登られては如何でしょうか。七面天女様が、やさしく微笑んで迎えて頂けます。〔七面山からのご来光・平成18年9月10日撮影・今年は、例年になく素晴らしいご来光でした。正面は富士山で、お彼岸の中日には山頂から昇ります〕


42.〔平成18年9月版・平成18年9月2日更新〕
 今更、お話しするまでもありませんが、それにしても、若者が引き起こす殺人事件が多いです。友達同士であったり、実の親であったり、中には友人に母親の殺害を依頼したという事件もありました。連日のように起きるので、ニュースも次から次へと変わり、少々前のことは忘れ去られていきます。もちろん関わりのあった人たちには一生忘れる事は出来ないことですが、そうでなければ、いつしか忘れられていき、そして怖い事ですが、だんだんと麻痺してきます。
人を殺害するということが、まるでゲームのような感覚であったり、少々のことでも殺してしまうことで結論を出そうとすることが、とても短絡的であり、生命そのものや生きるという価値観が正しく伝わっていない現象の一つだと思います。
単純に「命は大切」ということさえも一度も聞いた事がなかったのでしょう。今月の聖語メッセージに(お寺の掲示板と同じです)「つらいときには、真の自分を忘れがちになり、自分が選んだ人生を創造するために与えられた道具を忘れがちになる。(「神との対話」より」とあります。人生において辛い時とか、苦しい時、最悪の状況だと思われる時などは、もうどうなってもいいと自暴自棄になります。しかも何故、自分だけがこんな目に遭うのかと嘆きたくなります。そう思うのは仕方がないことで、仮にどんな状況になっても、どこか冷静でいることができるのは、よほど人間が出来ているか、悟っていないと無理だと思いますし、そう思われるでしょう。
たしかにその通りで、初めて経験することに対しては、抵抗力もありませんし、対応力もありませんから、そうなります。しかし、何故、そのような目に遭うのかを考えた時、決して偶然起きているのではなく意味があって、そうなっているという考え方をしたら、悩み方や苦しみ方は異なってきます。経験を通じて苦しみの意味が理解できれば、もうその経験をする必要がないということになります。そうすれば全面的に苦しみを受け取るのではなく、角度を変えて見ることができます。
常に、意味があっての辛さ、苦しさであるということです。同時に、必ずその苦しみ、辛さを和らげる方法と理解できるアイテム(道具)が、自分の周りに様々な形で存在しているということに気付きなさいということです。言い換えると、平素から、目にしている物であったり、例えば本とか情報誌、それは人物であったりもします。普段はあまり気にしていなかった事柄であったりもします。いづれにしても自ら、そんな時のためにと、予め用意してきているのです。それは、辛くなった時、苦しくなった時、しかもどんどんと深まっていった時こそ、手にすることができ目にすることができるのです。
思い出してください。あなたご自身で救いの方法をちゃんと用意してきていることを。そして、それを見つけるには意外に簡単なことで、どれだけ素直になっているかです。もうだめ!とバンザイしてしまった方が早いかもしれません。そして、これをお読みになったことも偶然ではありません。どうぞお電話を!お待ちしています。〔三重県・大王崎灯台 今年の夏休みは1日半でしたが、行けただけでも感謝です。



41.〔平成18年8月版・平成18年8月2日更新〕
 イスラエルとレバノンが戦闘状態になっています。互い多くの兵士をはじめ女性、子どもを問わず亡くなっていると連日、報道されています。この地域は、以前から様々な問題を抱えているところでしたが、背景にはアメリカとイランが関与していますので、根本的な解決は難しいと思います。しかし、キリストの聖地をふまえた場所でもあります。本来、命を生かす場所なのに、人の命が奪われていくという悲しい現実です。
 聖地といえば、昨年、お釈迦様の聖地インドへ仏蹟巡礼の旅をしました。(No24に書きました)お釈迦様が晩年、法華経を説かれた霊鷲山(りょうじゅせん)という場所があります。ラジギールという地名で、現在でも、ほとんど当時のままで、いわゆる未開発の地域です。今回行って驚いたのは、実は、その仏舎利塔から西側を望むと、広大な土地が開拓され、そこには軍事工場が大規模に作られていました。もう今頃は完成していると思いますが、人類救世の偉大なる法が説かれた聖地のすぐ横に、人類を殺戮する兵器工場が同時に存在するという。なんとも複雑な思いがしました。
人間という生き物は、狭いこの地上で、互いの権利ばかりを主張し、結局、最後は殺し合うという、なんとも愚かなと今更ながらもつくづく思います。
 日本も、特に最近、近隣の国から見えない恐怖にさらされています。TVや新聞等でも、盛んに取り上げられていましたが、評論家の議論だけで何が本当なのか分かりません。どうしたらいいのかさえも分かりません。ゆえに緊張感もなければ、単なるTVの中だけの話となってしまい、所詮、他人事になっています。国全体が、自分の所は何があっても大丈夫、まるで関係ないという意識に慣らされてしまいました。世の中に起きている災害、戦争、飢餓、国際的危機、自然破壊、近隣で起こる殺人でさえ、すべての事柄に対して、みんなバーチャル(幻想)の世界であるかのように、意識がずれてしまったのかもしれません。
しかし、これではいけないという勢力も出てきます。均等にバランスがとれるように、立て直そうという力も湧いてきます。それが自然の摂理であります。これからは、ますます不可解で混迷を増すでしょう。又、危機も深まるでしょう。でも、そうなればなるほど誰に命令される訳でもありませんが、心の奥底から、なんとかしようという不思議なエネルギーを感じたら、それはとても大切な本心であると思います。平和な中では、平和は分かりません。痛みの中で安らぎは分かります。幸せな中では感謝は薄れてきます。相反する相対の中で気付くことができます。私たちは、この世に誕生してきた最大の目的の中に、魂の向上があります。悲惨な時代ゆえに学べることもたくさんあります。平素は自分や家族、仕事のことなどに頭を悩ませていますが、時には、自分の廻りや世界に目を向けてみることも必要かもしれません。
そして、人類の幸せを祈りましょう。
多宝山の仏舎利塔・昭和44年に完成し落慶法要には、先代上人(父)がインドへ渡り参列しました。〕


40.〔平成18年7月版・平成18年7月1日更新〕
 FIFAワールドカップ、いわゆるサッカーの世界大会も、あと数試合を残すのみとなりました。日本も出場しましたが、予選はおろか1度も勝利せずに終わりました。勝てなかった原因は、いろいろあるでしょう。あまりサッカーのことはよく分からない私ゆえ言える立場でありません。しかし、国民の多くが応援していたことも事実ですので、気まぐれ・その時だけファンの一人として、次の4年後を楽しみにしたいと思います。

 毎月のように、親子・親族での悲惨な事件を語るようですが、それだけ日々、そのような事件が起きていると言う事です。先日も、高校生の少年が、自宅に放火し、義母と弟、妹を焼死させた事件がありました。少年は、県内でも有名な進学校に通い、成績も優秀であったようで、将来は父親と同じ医師を目指していたとあります。義母も医師であり親族にも医師が多くおり、そのような環境の中で育ち、しかも、実の母親と妹は、小さい頃に別れたようです。そんな淋しい複雑な背景が絡み合っての事件でありました。
 
今月の聖語メッセージ(お寺の掲示板)に『一方的に決め付けたり、非難したりしないほうがいい。何故起こるか、何のために起こるか、あなたがたには理解できないのだから』(「神との対話」より)と掲げてあります。このような、悲惨な事件や出来事が起こるたびにTVなどの評論家は、それぞれの立場で意見を言います。それが仕事ですから言いたいことを言います。又、そういう意味では責任がありません。一方的に思ったことを言えばいいのですから、しかし、真実は事件に関わった当事者や関係者しか分からない、いや当事者でさえ分からない、理解できないこともあるはずです。
しかも、自分自身が何をしたのか理解していない、理解したくない事だってあります。当の本人が、そのような状況であれば尚更です。 
私たちの日常生活の中でも同じで、その時に答が見つからなくても数日後、数ヵ月後、数年後、数十年後、さらにそれ以上、先に、又、後になって分かる事もたくさんあります。それゆえに、その場限りで一方的に決め付けることだけはしない方がいいということです。 
なんでも自分の意見が一番正しいと勘違いしている人がいます。皆さんの周りにも、思い出される人がいるかもしれません。何かに付けても無理やり意見を押し付けてきます。しかし、家族や親族の中に、そういう人がいると家族はやがて崩壊していきます。もし親がそうであったら、やがて子どもたちが成長し目覚めてくると、もうこんな親とは関わらないでおこうと離れていきます。仮に離れることが出来ない時には、先の事件のようなケースもあり得てしまいます。
 いづれにしても、自分の意見や考えも、多くの意見の中の一つであるというように考えていくことが、和を乱さない方法です。これは気が付いた人から、意識して変えていくしかありません。如何でしょうか?これも一つの意見ですが・・・・。
〔先日、行った佐賀県の唐津城、別名鶴舞城とも言われています。この公園の先には、松林が5Km以上も続いており、その中を走りぬけれます。今、再び日本の海岸を松で囲もう(植えよう)という運動があると聞きました


39.〔平成18年6月版・平成18年6月1日更新〕
 5月27日早朝、インドネシアのジャワ島で、また、大規模な地震がありました。インドネシアでは、この1年半の間に3回もの地震や火山などが起きています。何度も同じ所に災害が起きると、住んでいる人々は当然のことですが、何よりも早い復興を祈るばかりです。
日本でも、いつかは起きるであろう大地震を予想するような週刊誌の見出しを見ることがありますが、ほとんど当てになりません。はずれるということは、狼少年の譬えのように、だんだんと信用されなくなり他人事のようになっていきます。一番恐ろしいことですが、そんなことにならないよう用心すべきです。

 新聞の記事に「子どもの学力の二極化が進んでいる」とありました。それは、「勉強のできる子」と「できない子」の二極化が進んでいると感じている人が60%を超え、さらにその原因の70%近くは「家庭の所得格差が原因」であると考えている。有識者で作る「日本の教育を考える会10人委員会」のアンケートの結果です。
 インターネットで全国1万余人の各年齢等を考慮して集めたアンケート結果ですが、学力の格差は進んでいるか?と尋ねたところ、「塾や予備校などの費用が出せるかどうか所得格差が影響する」と70%近くの人が、このように回答したということです。又、子どもに受けさせたい教育は「大学まで」が最多で73%、「大学院まで」が9%、「高校まで」9%、「専門学校まで」6%と続いています。
この他にも詳しい調査が行われていますが、ともあれ、今の時代は大学は当然のようになってきています。少し前には、就職先がないから、仕方ないので大学へ行くということも聞いた事があります。さらに進学校の進路指導では、大学院を出なければ自慢出来ないとも言われています。又、数年先には、学部さえ選ばなければ、みんな大学へ行けるとも言われています。教育という一言では語れない問題ですが、現実としては何かスッキリしない状況であることは否めません。
 小泉総理は「格差はあってもいい」と答弁しています。格差社会を認めるということです。賛否両論あるでしょうが、いつの間にか、このような社会になってきました。これから益々、そうなっていくのかどうか分かりませんが、人類が集まり、社会が形成されてくると、自然と上下関係が発生し、やがて格差が生まれるという仕組みになっているのでしょうか。しかし、これらのことは人類は何度も繰り返してきたはずです。今、始まったことでもないはずです。世界中のどこかで成功や失敗を繰り返してきたはずです。又、本当の意味での、格差とはなんであるのかと思います。ただ単に金銭的な物質面だけを捉えての格差なのか、精神面も踏まえたらどうなのか。しかし、魂の世界から言えば格差なんてなく、ただあるのは、この世において、どのような境遇や待遇、そして環境が、すべての出来事を、どのように体験するかということだけです。ですから、そういう意味では格差そのものも、自分で作り出して(創造)いると言えるのではないでしょうか。
以前より、スッキリしました。杉の木がありません


38.〔平成18年5月版・平成18年4月30日更新〕
 丁度ゴールデンウィークに入ったところで、観光地は一杯というニュースが流れています。さらに海外へ出掛ける人たちも年々増え今年は最高のようです。どうも、こういう時期に旅行をしたことがないので、あまりピンときませんが、まとまった休日しか家族や友人と旅行に行けない人たちにとっては、やはり楽しみのことと思います。
「連休中は、どこへ行っても満員で、しかも料金も高いから、どこにも行かない方がましだ!」という意見もあります。このようなことを言ったら、それは、本当は行けるのに行かない人の口実であると言われました。たしかに、本当に行けない人は、そんなことさえも思わないでしょう。また、休日の過ごし方も、それぞれ自由でしょうから。ともあれ、家族で楽しめる時間は意外と少ないです。大いに楽しんで下さい。

「天国と地獄」(アラン・カルデック著・浅岡夢二訳)という本を読みました。内容は霊との対話をまとめたものですが、この本は、今から200年前のフランスで書かれたもので、日本では翻訳されていなかったものです。
 内容は、この世を去った人々との交信記録です。中には、死んで間もない、まだその人の遺体が埋葬される前の状態の霊との交信もあります。さらには、自殺した人、犯罪者、もちろん生前中に善根を積んだ人など、さまざまな霊(魂)との交信記録です。詳しい内容は、本を読んで頂ければ、より一層のご理解が得られると思います。しかし大前提は、人間は死んで肉体が滅びても魂(霊)として存続していることが、当然のこととして受け止めれるか、このことを、どこまで信じているかとなります。最近では、かなり理解されてきた面もありますが、でもまだまだかもしれません。
 私にとっては、母親が、いわゆる霊媒師(れいばいし・亡くなった人の霊を自分の身体に移すことができる。そのことで、その人と会話ができる)であったため、小さい頃から、霊魂は当然あって当たり前のことでした。日常がそのような状況での会話でしたから疑う余地もありませんでした。又、相談に来られる方の問題解決は、すべてこの方法でした。それぞれのメッセージが告げられる訳ですから、その指示に従って解決していくということです。ですから、そう意味においては奇跡とか神秘は当然のことでもありました。勿論、信仰・祈りは大切な救いの方法であることも、この本からも分かりますが、現実においても、そうでありました。私には、幸か不幸か母親のような力はありませんが、それはそれで私なりの使命があるかと思います。
スピリチュアルな世界が広がっていますが、まずは、身近な「死んだらどうなるの」という疑問の答があるかもしれません。是非、興味のある方は、書店でご覧下さい。そして、また語らいましょう。
〔インド・クシナガル(仏陀涅槃の地) 涅槃像〕


37.〔平成18年4月版・平成18年4月3日更新〕
 今年の桜は、関東地方はすでに満開ですが、この地域ではこれからです。気温もなかなか上がらず、連日、雨や強風が交互にありますから、桜も大変そうです。しかし、我々、人間が自然を破壊することに比べれば、どうってことないのかもしれません。
もうすでにプロ野球は開幕していますが、3月に行われたWBC、野球の世界一を決める大会が、アメリカで初めて開催され、ご存知の通り日本(JAPAN)が優勝しました。本来ならば、アメリカが優勝して当然と言われていましたが、いろんなアクシデントがあったり、逆にチャンスにも恵まれて初代チャンピオンになったのですから、それはそれでとても素晴らしいことであると思います。
サッカーのワールド大会にしても、オリンピックにしてもスポーツを通じ、それぞれの国を代表して戦うというスタイルは、全人類平等、仲間といいながら、みんな自然と自分の国を応援しています。当然と言えばそうですが不思議です。それには、すべて条件が同じであると互いに認識しているから、本気で戦えるのであって、どちらかにハンディがあれば成立しないことになります。ある面、この地上に、それぞれの国に生まれながら、世界のルールの中で切磋琢磨していくことは人間としての向上には必要なことかもしれません。


 先日、ある出来事がありました。関係している周囲の人々は、なんとか、その出来事を理解しようと、様々に思考をめぐらせます。しかし、その意見は全部異なっています。自分の考えを基にしますから当然です。自分にとって優位な都合の良い意見や考えとなります。その内に、原因を追究しはじめると、誰かを悪者にしていかねばならない状況になってきました。勿論自分以外の誰かとなります。こうなると、互いに疑心暗鬼になって、ついには、その場にいた人々もみんな悪者になってしまうという事態とになります。
 しかし、よくよく考えてみれば、その人、本人しか理解できないものを、どうして他人が理解できるのでしょうか。であれば、最初から理解しようと思わなければいいのです。それは親子、兄弟、友人でさえ、そうだと思います。よく、子供のことを理解しない親がいる。だから、子供が悪事をすると言いますが、では、本当に子供のことを理解できるのか疑問です。子供だって他人です。自分以外の人間の心や考えを正確に理解できるのか、ほとんどは、親の立場という、都合で理解しているつもりになっているのではないでしょうか。しかし、それでは意味がありません。 では、どうするのか。それは理解しないことです。理解することを止めた時、そのことが分かるのです。要するに自分の考えに当てはめ様とすることを止めることです。自分の考えを介入させないことです。少し難しいことかもしれませんが、参考にして下さい。
そこには、苦しみからも混乱からも解放されます。
〔やっと開花した境内の桜・苗木から育てたので〕


36.〔平成18年3月版・平成18年3月2日更新〕
 前好評は良かったはずの、冬季オリンピック・トリノ大会も結局は、荒川選手の金メダル1個で終わりました。でも、1個でも取れたことは良かったと思います。4位という選手は大勢いましたが、メダルを取るということの難しさを思い知らされたと言う事でしょう。
 ある記事の中に、冬のスポーツには必ず道具を必要とするので、その道具によってかなり差が出ます。又、百メートル走は雪の上でも走れますが、スキーは雪がないと滑れません。氷の上では、さらに専用の靴が必要です。そういう意味では、冬のスポーツは限られた地域のこととなります。日本の環境を考えた時、施設の数も含め、余りにも様々な点で無理があるのかもしれません。
長男もアイスホッケーをやっていますが、それも、たまたま近所の子に誘われ始めたのですが、道具1つにしても、小さい頃はサイズがどんどん変わるので、大きい子から小さい子へと防具が回されていきます。スケート靴しても同様ですが、いつまでもそんな訳にはまいりませんから購入していかざるを得ません。ステックしにても折れたら、それで終わりです。
どんなスポーツにしても条件は同じ事でしょうが、特に道具や施設、環境を必要とし作用されるスポーツには限界もあるということでしょう。又、それでいいのではないかと、そんなことを感じた今回のオリンピックでした。でも、カーリングは面白かったです。

 小泉首相が「ガセネタ」と言った、民主党のメール事件も終息に向かっていますが、その成り行きはそれぞれの立場や専門家に任せるとして、今は手紙を直筆で書くことがほとんどなくなりました。こうしてご覧になっている文章もコンピューターという機械を通じて一定の書体で表されています。もちろん、公式文章も本もそうですから、人の意志を伝えるには、それで問題はないのでしょうが、以前、ワープロが出始めた頃(20年以上前)に、早速、使ってお寺さんに文章や、宛名をワープロで出しましたら、ある老僧に怒られた覚えがあります。同時に留守番電話(当時は、独身で両親もすでに他界し、妹も嫁いでいましたので)を導入しましら、これも怒られました。独身の私にとっては画期的なことだったのですが、少し早く導入し過ぎたのでしょうね。しかし、それから間もなく当たり前の時代となりました。
中には、家族で、しかも目の前にいる子や親にメールで会話しているとも聞きます。それは、根本的にどこか違うと思いますが、どんどんと発達していく中で同時に失われていくものも沢山あります。せめて、家族同士ぐらいは何でも話し合って欲しいと思うのですが、しかし、一番話しやすい反面、話づらいのも身内かもしれません。その一つには、この位は分かっててくれていると思う甘えもあります。であれば、せめて、今生、親子、兄弟、夫婦になっているのですから、甘える時は徹底的に甘え、そして甘えさせてあげることです。その中から本心・本音で付き合えたら問題は起きません。又、諸問題は即解決します。「あなたが、どのくらい甘えさせてあげれるかです。」今日から試して下さい。〔3月3日「ひな祭り」〕



35.〔平成18年2月版・平成18年2月1日更新〕
 法筵寺恒例となりました「開運節分会」も、1月29日に盛大の内に修了しました。この節分会は、数ある行事の中でも特に力を入れている一つで、準備も昨年の10月頃から始めています。始めた頃は、ごく一部の檀信徒の方々が対象だったのですが、ある時期から、対外的にもPRして多くの方に参詣して頂くこととなりました。まだまだ満足できるような状況ではありませんが、毎年毎年の反省と新たなる企画、ただひたすら積み重ねていくしかありません。
しかし、一点、水行(写真参照)するには、年々、体系が衰えていきますので(見世物ではありませんが)、引き際が難しいと思っています。ともあれ、節分会の行事が終わると、ホッとしますが、続いて翌週には盛運祈願会の行事が待っています。 今年、参詣できなかった皆さんも、来年こそはお参り下さい。
写真UPしましたので、こちらをどうぞ。 

こんな記事が載っていましたので、皆さんもお考え下さい。
それは、ある小学校での話です。給食の時間には、一般的に「いただきます」で始まり、終われば「ごちそうさまでした」といいます。それは当然の事として行われてきたはずです。しかし、ある母親から「いただきます」と言わせないで欲しいと訴えがあったそうです。それは給食代を支払っているのだから「いただきます」と言う必要がないと言う訳です。さらに、他の記事には、「おはよう」や「さようなら」の挨拶さえ必要があるのかということです。これらの質問や訴えに対し、学校として教師として、どのように対応したのかはわかりませんが、皆さんも、何か反論や、疑問や、又は同感と思うかもしれませんが、何かを思われたことと思います。
 私も、エッと思ったのですが、では、どのように答えたらいいのかと迷いました。人間すべて同じではありませんから、個々に意見もあり、主義主張もあるでしょう。それに、その母親はどのような環境で育ったのかによって答え方はまったく異なります。このような事例は、他にもたくさんあると思います。こちら側の理解していることと、相手側の理解の仕方。価値観の違い、捉え方で全く異なる結果になります。この位は最低限、理解しているだろうと思うのは、実は、こちら側の思い込みであって、相手は全く理解していないのです。すれ違いというのはそういうことから始まります。「何で、もう少し分かってくれないの!」と嘆くより、ちゃんと説明し、分かるよう理解してもらう努力をした方が懸命ということです。「赤信号は止まれ」ということも聞いて理解したから守れるのであって、理解しなかったら大混乱になるか、破滅するしかないのです。
 この母親自身は、どのような人生を歩むかは自己責任の問題ですが、そのような価値観で育てられる子どもは、果たしどのような人生になるのでしょうか。決して批判するのではなく、どうなるのか考え、そしてどうしたらいいのかもお考え下さい。〔お天気には恵まれましたが、その分、冷たく感じます。〕



34.〔 平成18年1月版・平成18年1月2日更新〕
あけましておめでとうございます。本年も何卒、お付き合いの程よろしくお願いを申し上げます。
 本年の干支は「戌・いぬ」年です。さらに十干では「丙・ひのえ」といい、暦などでは「丙戌・ひのえいぬ・へいじゅつ」と書いてあります。これは、古来中国から伝わってきた年の数え方ですが、それはそれで意味があるようです。
以前も書きましたが、干支が12年で一巡し、十干は10年で一巡しますから、60年で最初に戻ることになります。ですから前回の「丙戌」は昭和21年ということになります。年のサイクルや自然界のリズムなど、又、肉体的なサイクルとも順応し合っていますので、やはり単純に西暦2006年と表すだけでなくそれなりの独特な意味があるのでしょう。
 ちなみに、本によると、「丙」も「戌」も陰の気を持っていて、丙は、「明らかなり」という意味で、伸びる陽気を持ってはいるものの、その陽気がまだ囲いのなかに籠もっているので、いわば囲われた陽気である。戌は、草木が繁茂して暗いありさまを表しているので、剪定して明るくしなければならない。整理が必要な年回りである。と書いてあります。
昨年後半から、マンションやホテルの耐震偽装問題が出てきました。これらは、なんとなくこれらの文面を思わせるような出来事ではないでしょうか。生い茂った木々の太陽の当たらない蔭で、こそこそと怪しげなことを企てていたことが、どんどんと表に出てくるという状況です。しかし、現実にはそのような背信行為をしていたのですから、いつかはバレます。ただその時期が何時になるのかだけで、何事も隠し通せないということでしょう。ただ、今回は、関わっている住民の人々もさることながら、建物の近隣に住む人にも、今までずーと大地震が何時来てもおかしくないと云われ続けています、それゆえ恐怖は一層募ります。こればかりは早い対処を望むばかりです。これからも益々、世の中を震撼させるような事件や事故が起きると思いますが、それもすべて、私たち人間の思い、考え方から始まっています。
「悪」と呼ばれる出来事でさえ、みんな人間の心がそうさせています。決して神仏が私たちに天罰を与えているからとか、罰とか罪とか、そういうものではなく、すべて人間の個々の創造からです。こうしたいと思った、その瞬間からスタートして、それが現実となっているだけです。
この世の中を平和にしようと思うのならば、まず、自分自身の中に平和な思いを持つべきです。「あいつが悪い!」「あいつは許せない!」「あいつがいるから!」そして、「こんな自分なんて・・・」とそんなことを思っていて、どうして安楽な境地になるでしょうか。まずは、今年最初は、そういう考え方を変えていきましょう。〔年末に2度積雪がありました。でも、雪国の人のご苦労を考えれば、どうってことありませんよね。


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