思うまま・独り言集(1)
「思うまま独り言〈2〉」平成18年1月(.34)〜平成19年4月(.49)
「思うまま独り言(3)」平成19年5月(50)〜平成20年11月(68)
最新「思うまま独り言」

33.〔 平成17年12月版・平成17年12月1日更新〕  
今年も残り1ヵ月となりました。毎年この時期が来ると、ナント月日の経つのが早いのかと実感する時でもあり、新たなことを学び、発見し進歩しただろうかと反省もふまえ考えさせられる時期でもあります。多くの出会いや別れがありましたが、インドへ2回も行く事ができ貴重な経験をすることもできました。でも、一人では何もすることができません。相手がいてこそ、皆さんがここに居られるからこそはじめて成り立つことばかりです。まずはそのことに心より感謝します。

先日、「最も幸せな日本人像は30代、都会暮らし、専業主婦」という見出しの記事がありました。これは大阪大学社会経済学研究所が各層、男女6千人に対して「幸福感」についてのアンケートを行った結果です。その結果による
と、幸福感を10点満点で答えると、5点が最も多く25%で、次に7点が20%、8点が18%、10点も5.5%いました。逆に4点以下は13%です。さらに、男性よりも女性の方が幸福感が多く、年齢では30代が平均値6.6点、次に20代は6.4点、40代以降は年を取るほど平均値が下がっていくそうです。しかし、アメリカ、イギリス、ドイツなどでは30代が最低でその後は、どんどんと上がっていくそうです。所得に対しては、年収1500万円までは所得が上がるにつれて幸福感が上昇し、1700万円以上になると逆に低下するという皮肉な結果も出ています。
居住地域では、政令都市などの大規模都市になるほど上がるようですが、ノルウェーでは都市部も田舎でも幸福感は変わらないそうです。又、非喫煙者やギャンブルをしない人のほうが幸福感が多く、飲酒習慣では大差はありませんでした。宗教に関しては、ある人と無い人ではある人のほう、他人の生活水準が気になる人とならない人では、気にならない人のほうが高いという結果だそうです。
これらをみて、果たして自分の幸福感はどの程度なのか比較してみるのも面白いかもしれませんが、個人的な立場が多いと思いますので、自分や自分の家族も含めた場合はどうなるのか、今は健康でも、いつ病気や経済の不安が襲ってくるのか分かりません。そうなれば、数値も一瞬にして変わります。
常にいつまでも幸福でいたい、そう願うのは悪い事ではありません。誰もが願っていることでもあります。しかし、その願いの中に、自分には○○が足りなから・・・、あの人にはあるのに私には無いから・・・、自分は愛されてもいなし、満たされていないから・・・など。ゆえに私は幸せでないという考え方をしている人は絶対、幸せになれません。何故なら、「今の貴方には何も足りないものはない」と言われているからです。とんでもない!と言われそうですが、まずは、今の自分の置かれた環境、境遇すべてを認めることから始まります。このことは先々月にも書きましたが、もう一度、新たなる年を迎える前に、静かに思いを巡らせ今の置かれたる自分の姿を見つめ、すべてを認めて下さい。そうすれば何かが変りはじめます。  良い年を迎えるためにも・・・・。
お釈迦様が亡くなられた場所・涅槃堂(クシナガル)の日の出


32.〔平成17年11月版・平成17年11月1日更新〕 
 10月8日に起きたパキスタン地震の被害は、日に日に拡大しているようです。死者の数は5万人を超え、被災者は300万人以上です。今回の震源地は、カシミール地方と呼ばれる、インドとパキスタンとの軍事境界線付近で国境としても不安定な、いつも互いに睨み合っている場所でもあります。
すでに世界中から救援隊や物資が送られていますが、場所が高地のために、寒波や飢えによる「第2の死の波」が問題になるとアナン国連事務総長が述べています。たしかに地震には国境もなければ、人種差別もありません。アメリカのハリケーンでも、昨年のスマトラ島地震でも、みんな天災は地球上で起きている事であり国単位ではありません。しかし、悲しいかな亡くなっていくのは無抵抗な人たちです。被災された方々も生きていく為には困難を強いられます。ゆえにせめて、無意味な戦いや殺し合い、陣地争いなど傷つけ合うのはやめるべきです。

 11月6日は、法筵寺で日蓮大聖人の第724遠忌(おんき)の法要が営まれます。遠忌というのは、宗祖(宗派の基となった方)のような方のご命日に営む法要を遠忌法要といいます。特に、大聖人の場合は、古来から、お会式(おえしき)と称して、東京大田区池上がご入滅(亡くなられること)の場所ですので、江戸時代より、大聖人のお徳と報恩感謝のお祭りとして盛り上がってきました。今でも、東京では有名なお祭りとなっています。正式には10月13日がご命日ですが、その前後には各寺院でお会式法要が営まれています

 大体、私たちのように普通の人が亡くなると、一周忌からはじまり3年、7年、13年と続いていきますが、宗派によっては33年で終わりというところもあります。五十回忌を営んで頂ける人は、余程早く親を亡くしたか、特に功績があって、その顕彰を称えてのことではないでしょうか、なかなか営むことは稀です。
仏教では、1年、3年、7年、13年と年回忌を勤めていきますが、宗教が変われば、5年、10年、15年と亡き方を追悼する、いわゆるご法事を営む年数も異なります。もちろん、すべて後世の親族が関わる宗教によって、営み方も変わりますので、どの方法が正しいとかは語れません。よくよく考えてみれば当然のことなのですが、みんな昔から、そうしてきたからということで、その方法を用いてきたのでしょう。ですから、宗教が変わってしまうと根底から覆ることになりますので、もう良くても悪くても、なんとしても今までやってきたことを変えずにおこうと頑張っているのが、今の世の中なのでしょう。

 しかし、今は亡き方々、姿こそありませんが、その魂は存在し今尚、生き続けているということは申し上げるまでもありません。その為にご法事も営むのでしょうから。でも、ご命日やご法事の時しかお会いできないのかということになりますが、これはいつでもお会いできるということになります。ましてや、日蓮大聖人は、少なくとも私たち凡人よりも高次元の意識をお持ちですから、私たちに接する事は簡単なことでしょう。しかし、私たちの方がお会いできないと思うところに壁を作っています。いつでもお会いできます。そのような心をもってお会式法要にお参りされてはいかがでしょうか。もちろん、
皆さんが営まれるご法事でも同じです。〔ダリヤの花「プリンセス・マサコ」平成14年10月28日撮影・三重県なばなの里〕


31.〔平成17年10月版・平成17年10月1日更新〕
 185日間にわたり開催された、「2005年日本国際博覧会」いわゆる愛知万博が閉幕しました。予想をはるかに上回る2200万人以上の人々が来場しました。その内、4割は何度でも入場できる券を持った人たちであったそうですが、一人でも多くの来場者を招く為には、効果的であったかもしれません。でも、たった1日の為に遠くから旅費と高い入場料を払い、しかも何時間も待たされた人たちのことを考えると、もう少しやさしさの工夫が欲しかったかもしれません。

 開会式の折、小泉首相は「もったいない」ということを挨拶の中で何度も言っていました。「もったいない」を辞書で調べると、@おそれおおい。A身分不相応だ。B〔無駄に使うのが〕惜しいとあります。今回の万博のテーマは「自然の叡智」でしたので、意味としてはBのことであると想像できます。
さて、今の子供たちには、この「もったいない」という言葉をどれほど聞いているかです。私が子供の頃は、親から、何かあるごとにもったいない。食事を残せばもったいない。他人から物を頂いてももったいない。もちろん無駄な事をすれば、当然もったいないと、時には、自分にとって不相応な時でも、もったいないと、頭の隅に今でもその言葉は残っています。これだけ科学が進み文化が発展し、便利になってきた世の中です。金さえあれば何でも手に入るという風潮です。そんな中で、このもったいないという言葉の持つ意味は果たしどのように伝わるのでしょうか。人間の都合で勝手に自然を破壊し、地球がどんどん痛めつけられていることは頭では理解しています。数値でも分かるよう訴えていますが、それでも、それはまだまだ他人事であるかのように破壊は進んでいます。しかし、天気予報をみれば、地球温暖化の影響でしょうか、同時に8個もの強烈な台風やハリケーン(台風と同じもの)が発生していると衛星写真を見せられます。先日のアメリカ南部を襲った2個のハリケーンでは大変な被害が出ています。避難先から帰ると同時に、又、避難せよと言われても、だんだんとその意欲は無くなっていきます。日本は、せいぜい台風での避難命令は出ても近くの公民館位です。それは、規模と対策が違うのかもしれませんが、いづれ、大規模な避難を迫られる事があるかもしれません。自然災害は台風ばかりではありませんから。
 今、 「もったいない」という言葉を通じ、改めて何が人間にとってもったいないことで、どうすればもったいなくなるのか。そして大人は、子供に何を教えていくべきなのか。まずは、「もったいない」とい言葉自体を復活させることが大切ではないでしょうか。これは大人の責任です。言える事は、まずすべての事柄に対し満足すること、さらに今の自分はすべて満たされていると感謝できるかが原点です。今の状況を満足せよだと!何を寝ぼけたことを・・・と言われそうですがでは、いつになったら、あなたは満足を知るのでしょうか?いつ満たされるのでしょうか。そんな日は本当は永遠に来ません。何故なら・・・・。皆さんで考えて参りましょう。
185日間・2204万9544人が来場・最終日



30.〔平成17年9月版・平成17年9月1日更新〕
 すでに2学期が始まっている学校もありますが、ほとんどは今日で夏休みが終わります。子供が大きくなると、夏休みという感じがあまりしません。せめても、8月の第一日曜日に行った、夏休み「親子の集い」あの日が思い出となります。子供たちに思い出作りをと計画したのが、結局は大人の為の思い出作りだったのかもしれません。

昨日は、衆議院議員選挙の公示があり、9月11日投票日までの選挙戦となりました。政治に関してはあまり得意ではありませんので難しい事は言えませんが、今回は何やら分裂とか造反とか、刺客、仁義なき戦いとか、闇の世界で使う用語が飛び交っています。たしかに戦いかもしれませんが、このままの表現だと子供たちには、とても危険な世界と写るでしょう。無論、政治の世界とはそういうものかもしれませんが、そういう世界で決められるルールに我々は従わされる、という現実も覚悟しなければなりません。どのような結果になるのか予想もつきませんが、私たちの1票が左右する。決して大げさではなくそのように思います。果たして、どうすべきか。もう少し考えてみることにします。

今年は、例年行われる「七面山団参」を8月27・28日に開催しました。平成8年以降は9月でしたので、10年ぶりの8月開催です。わずか1ヶ月違うだけで汗の量が相当異なり、やはり夏の七面山は暑いと実感しました。
 10年程前までは、全国からの団参(団体でのお参り)が多く、参篭(さんろう・お寺に泊まること)
するにも寝る場所に苦労する程でしたが、近年では8月でも土・日しか参拝者がなく、平日は0という日もあると聞きました。一体、あの時の賑わいはどうなったのでしょうか?そんな中でも、新興宗教の人たちはコンスタントに参詣しているようですので、本家の日蓮宗寺院の方々の団参が激減したのではないかと思います。一つには高齢化し、参拝する人が減ってきたという理由もあるでしょう、だったら、若い人たちに声を掛けるべきですが、その引率するお坊さんも高齢となってしまって、お坊さんの世界(各寺院の中でも)世代交代がうまくいっていない、若いお坊さんが自由に布教活動ができない、そういう面が、こうしたところにも表れていると思います。(山登りが嫌いだったら・・・ダメかも?) この七面山団参は、共に汗を流して登詣する、経験をすることによって、新たなる時代やお寺の協力者を築く人材育成の一助になると思うのですが・・・・。たしかに七面山登山でなくてもできると言えばそれまでです。ならばせめて七面大明神様をお祀りされているお寺くらいはお参りされたら・・・・。いや、総本山にも団参しないお寺もあるのですから、そんなことは、やはり余計なおっせかいでしょうね。 ともあれ歩ける内は、これからも毎年、七面山団参を行うつもりです。そして、一方では、お山に登りたくても登れない人たちにも団参をと・・・。分かっております。少々お待ち下さい。
まずは皆さん、また今月から団参の積み立てを始めましょう
麓にある、養珠院お万様と白糸滝。お万様によって、七面山登山の女人禁制が解かれました。〕



29.〔平成17年8月版・平成17年8月1日更新〕
 毎朝、ラジオ体操がお寺の前で行われていましたが、今朝は、公園に集まり今期最後となる学区合同での体操が行われました。私たちが小さい頃は夏休み中、行われていました。今では、夏休みの初め10日間位で、そうなったのも随分前だそうです。 

ロンドンやエジプトで、テロによる無差別殺人が繰り返し起きています。何時になったら終わるのか。それとも終わる事はないのかとさえ思います。テロが起きる原因は、複雑でかつ難解な問題を含んでいますが、同じ人類同士であります。しかし、同じ人類であるゆえ、その不平等差によって起きるのも一因です。
歴史を遡れば、何時の時代でも、人類が存在していた場所では戦いがありました。しかし、無関係な人々を突然、予告もなしに、しかも自らも死を覚悟で行うテロは卑劣な方法であります。そのような行動に駆り立てられるには、それなりの思想や考えがあり、リーダーによって扇動されているのでしょうが、人は誰しも好んで死は望みません。しかし、減るどころか増えています。まず、根本的な解決には、人々を傷つけ殺し、自らも死ぬということを”良し”とする考え方を改めなければならないでしょう。 
でも、これらの多くの考えは、「この神しかいない」「この神が絶対である」という根強い宗教によって行われていることも事実です。いつまでこの考えは続くのでしょうか。 

 常に申し上げることは、人類はすべて一つであるということあり、人を殺すこと、傷付けることは、自らも傷つけていると同時に、「神・仏」さえもそのようにしていることに他ならないのです。「神の為に他を殺す」「神に背く者は地獄へ行っても仕方がない」「この神以外には救われない」など、果たして、そんなことを認める神は存在するのでしょうか。日本でも同じようなことを言っている宗教はたくさんあります。「自分の信じる神が一番」であると、もちろん、そうでなければ宗教や宗派は成り立ちません。しかし、「神・仏とは、あなた自身」という出発点ならどうなるのでしょうか。
 お釈迦様や日蓮大聖人の教えも、「あなたが仏(神)そのものある」と言っておられます。それゆえに、日々の努力や精進を重ねています。元々、仏(神)だから、その振る舞いをしているだけであり、誰にでもその資質が備わっているのです。ただそれに気付いていないともあります。すべての人類を気付かせれば、テロも戦争も起きることはないのです。ただし、それに気付くまでは、しばらくはこの状態が続くのかもしれません。気付くために起きているとも言えます。
 ちなみに仏と神を同じように書きましたので、中には、おかしいのではと思う方もおられるでしょうが、実は同じだということについては、こちらの説明をお読み下さい。(No1) 6月に天皇両陛下が慰霊に訪れたサイパン島のバンザイクリフ。〕



28.〔平成17年7月版・平成17年7月1日更新〕
 先日、お寺が建てられてから、初の庭師さんによる木々の剪定を行いました。思えば、今まで大掛かりに手を入れる程の境内でもなく、草木もありませんでした。しかし、今回は、伸びきった杉の木や庭木を思い切って切ろうということになり、写真の通りさっぱりしてしまいました。その様子を日記(ホームページにUP)から引用します。『少し、多めに刈り込んでもらうことにしたのですが、普段、前を通る人さえも立ち止まって、あまりの変わりように驚いています。丁度、いつも通る、おばあさんたち2人の会話が聞こえてきました。「坊主んちが坊主になった」と、たしかにお寺ですから、その通りでしょうが、あまりの表現にただ笑うしかありませんでした。当のご本人たちは、まさか聞かれているとは夢にも思っていないでしょうね。』これほどの変化であったとお察し下さい。それこそ、今回の坊主になったことで、もちろん、お寺の境内や家の中はものすごく明るくなりました。後は、運気もUPすることを望みます。

また最近、15歳の少年による殺人事件が2件続けて起きました。1件は両親を殺害し、さらに時限発火による証拠隠滅を図るというもので、もう1件は自分の兄を殺害するというものでした。どんな理由があれども殺人を犯すことは肯定できませんが、そこに至るまでの状況があったことは事実です。
いずれも少年の評価は、おとなしいかった、そんなに目立つ子でなかった、成績は決して悪くなかった、そして、とてもそんなことをする子とは思えなかったと言っています。では、何故そのような子が事件を起こしてしまうのでしょうか。もちろん、私はそのような分野のプロでもありません。ましてや人を批難したりジャッジ(判断)したりすることは自由と言えども許される訳ではありません。しかし、殺人を犯す、犯さなくてはならない程までに追い詰められていたことは事実であり、特に両親や兄弟を、その年齢で殺さなければならなかった経緯には、相当の辛い悲しい出来事を体験させられていたのだと思います。それゆえ一旦行動に出たら徹底的に残酷なまでの犯行にいたるのでしょう。
 本来ならば、家族や親族、周囲の人々が、そこに至るまでに何らかの警告やシグナルを受け取っていれば大事には至らないと思うのです。しかし根本的に、まずどうしていいのか分からない。誰に相談していいのか分からない。そのような付き合い方をしていない。他人に関してことなかれ主義など、自由や権利、自己責任などを主張する反面、煩わしい事には関わりたくないと閉鎖的であります。世間では家族のコミニケーション・会話が足りないと言われてから、もう随分月日が経ちましたが、ますますこの傾向は深まるばかりです。
時には、家族揃って思い切っり笑える、会話ができるような機会を設けて下さい。誰かがしてくれるのを待っていては、その日は来ません。気付いたあなたが音頭を取るのです。くすぶっていた問題も即解決します。
〔剪定の前と後〕


27.〔平成17年6月版・平成17年6月1日更新〕
愛知万博は、順調に入場者数も上がり100万人を超えたようです。名古屋の街にも、各国からの観光客が多く見られます。近々、以前お世話になった(独り言にも掲載・平成15年4月26日版)ニュージランドのダニーバーク高校から、教頭先生夫妻をはじめ数名の生徒が、万博にあわせて来日すると連絡がありました。久しぶりの再会となりますが、どうやら私が名古屋市内観光を担当することになりそうで、今から心配です。たまた苦手な英語地獄なのです!

 月にインドへ1ヶ月間ほど訪れたことは、先月お話をしましたが、いよいよ、そのインドで体験してきたことを基礎に、5月に2回のセッションを行いました。1回は檀信徒の方を中心に、もう1回は、このHPをご覧になった方、そして他でセッションを受けてこられた方などで、初対面の方々が半数以上でした。内容については、今までの信仰をさらに身近にし、まさしく経典等の教えに書かれていることを実践し体験していくものであります。もちろん実際に体験することをお勧めしますが、いづれも参加された方々の多くは、続けて受けたいとセッション後の感想にありました。しかし、このセッションを始めるにあたり、身辺でさまざまな変化や難問も起きました。それこそ、「おまえは、新たなる世界を目指し、次に進もうとしているが、本当に信念は固まっているのか!と問われるような出来事でした。まさしく取り組んでいく決意や信念を再確認するための事であったと思います。私にとっても家族にとっても衝撃的でしたが、今はそのことさえも感謝しています。それは、後日、初対面でしかも初セッションの方々から掲示板への書き込みに「現職の宗教家の方が、ディクシャセッションを行うのは色々な面でリスクもおありだったのかと思います。開催間際まで苦慮されたというお話を聴いて、今回ディクシャセッションを受けることができて感謝もひとしおに感じています。(中略)今後も継続して受講したいと考えています。」又、他の方からも「セッションの開催に直前まで戸惑いを持たれておられたとおっしゃいましたが、最終的に決行に導かれた先生の中の神に心から感謝いたしますと同時に、自分の意思でここに来れた事を(勿論私の中の神の導きがあってこそですが・・・)誇りに思います。ありがとうございました。」というようなお便りを頂けたことでした。決して自慢でもなんでありません。それどころか、さらに真剣に取り組んでいかねと誓うと共に、信仰に対する思いを一層深めていくことができたのです。
 私は、生来、自分の都合や楽しみの為に何かをしてきました。こういう考え方も否定はしませんが、しかし、そのことが常に誰かの為に、人が幸せになれるようなことに結びつくようでありたいです。
 そんなことを考えさせて頂けた5月でした。
インド・ブッタガタの大塔(悟りの聖地)〕


26.〔平成17年5月版・平成17年5月1日更新〕
 2月にインド仏蹟地を巡拝しましたことはお伝えしましたが、引き続いて、4月中、再びインドへ行って参りました。今回のインドは、私自身のバージョンアップと、さらに多くの方々の救いの一助となればとの決意でありました。詳しい事は、直接お伝えし、体感して頂ければと存じますが、留守の間、多くの方々にご迷惑やご心配をお掛けしましたことを、心から感謝し、その報いに対し今後も努力してまいりますので、何なりとご相談頂ければと思っております。

春の高校野球の優勝校が、地元愛知県の愛工大名電高校であることを知ったのは、つい最近でした。そして、尼崎市での電車大事故を知ったのも、少したってからですが、その悲惨さは、日ごと増していました。世界中をみても日本ほど、列車の乗り換え切符が買える国はないそうです。ようするに、いかに正確に1分1秒を競い運行しているかであります。当然、遅れれば甚大なる損害が発生する訳ですから、絶えず緊張の連続であり、そして少しでも遅れれば乗客は、イライラし駅員を怒鳴りつけるシーンを見ます。怒っても時間は取り戻せないのです。しかし、こんなに時間に対し、いつもびくびくして生きている国民もいないのではないでしょうか。今回の事故は、そのことだけが原因ではないでしょうが、時間に追われる中での大惨事も、又、どこかで起きるのでしょう。もう少し余裕がもてる世界にしたいものです。自分自身を見つめ直すこともできるのですから。今回、犠牲になられた方々には心からご冥福をお祈り申し上げ、怪我をされた方々の早期回復をお祈り申し上げます。

 こんな例え話があります。ある時、一人の老人が、電灯の下で探しものをしています。そこへ青年がやってきて、「どうしたんですか。何か探しものですか?」と聞きました。すると老人は「大切な鍵を落としたので、明るいところで探しているだ」と言いました。そこでその青年も一緒になって探すことになりました。随分、探したのですが、その鍵は見つかりません。そこで青年は、もう一度老人に尋ねました「あなたの鍵は、本当にここで落としたのですか?」そうしたら老人は「いや、あの暗い木の下で落としたのだ。しかし、あそこは暗いから、この明るい電灯の下で探しているのだよ」と。私たちは、いつも人生が良くならないと悩み苦しんでいます。しかし本当の苦悩の原因は、ひょっとして、この老人と同じなのかもしれません。
 
 
この世に、神様仏様が存在するのは、その本当の原因を一緒に探して頂けることなのです。
悠久の流れ・ガンジス川の日の出〕


25.〔平成17年4月版・平成17年4月1日更新〕
 お彼岸も過ぎたのに、今年は寒い日が続いています。いつもなら今頃は連日のように、桜の開花宣言や予想が報道されていますが、まだまだのようです。地震は起きない。考えたこともない。という場所で襲った福岡県西方沖地震は、「絶対に」という言葉は通用しないということであります。専門家でさえ予想しなかった地域だという事です。被災されました方々には、一刻も早い復旧をお祈りするしかありませんが、最近はこのような文面を何度も書いてます。いつもの事ながら、他人事ではありません。

 この愛知県では、3月25日から、日本万国博覧会、いわゆる万博が「愛・地球博」と題されて半年間に渡り始まりました。開会式には、天皇皇后両陛下、皇太子殿下、小泉首相をはじめ各界の要人が参加するなど、国を挙げての大イベントです。ここに至るまでには賛否両論がありました。もちろん今でもあるでしょうが、やはり行う以上は、恥ずかしくないタイトル通りの「愛」が伝わるようなものであって欲しいと思います。でも、弁当やペットボトルなど持込禁止とかで・・・名古屋の真夏の暑さを知らないのかな?脱水症状でバタバタと、そんなことにならないようにと願っています。
 
久々にお寺で結婚式が行われました。仏前結婚式というものです。それぞれの思いがあり、ご本尊様の前で誓いを交します。私は式の締めくくりに『結婚する理由』という内容のメッセージを贈りました。その一部に「安定を求めるから結婚するのではない。心の安定が得られるのは、相手を自分のものとして所有したり、支配したり、まして所有されたり、支配されたりするものではない。又、相手に要求したり期待したり、希望するからでもない。心の安定を得られるのは、愛と知恵と洞察、力と知識と理解、そして慈しみと共感と強さ。実は、誰でも自分自身の中に、それらがあることを本当は知っている。それを相手から得るためではなく、お互い贈りたいから、それによって相手をもっと豊かにしたいから結婚する。」というような内容です。結婚は、魂と魂のとても不思議な出会いです。共に生きていく楽しさと、辛さ悲しさを共有していく中で、互いにパートナーシップとしての権威と責任を平等に分かち合い、平等に負担を担い、平等に浴することを意識したいものです。 せっっかく夫婦になったのですから、金品など物資的なことや、いつも愛されていたいなど奪うことばかり思うのではなく、どれだけ相手に与えられる事ができるのか、今、与えているのか、もう一度考えてみませんか。
タージマハール・インドアグラ 

 

24.〔平成17年3月版・平17年3月3日更新〕
 本来は、2月末に更新する予定でしたが、2月19日より3月1日までの11日間、平成6年以来、11年ぶりのインド、お釈迦様の歩かれた聖地を巡拝する機会に恵まれ旅をして参りました。
師父は、35年前、日本山妙法寺が多宝山(ラジギール)に仏舎利塔を建立した時の落慶法要に参加されました。以後、「一生の内、一度はお釈迦様の聖地へ訪れたい」との思いで両親が計画を立て当時の信徒をはじめ30名近い人々と仏蹟参拝をしたのが私にとって初めてで30年前のことでした。
それ以来、27歳の時、1人で2ヵ月間、仏蹟地をはじめナグプール(日本人僧侶が布教している町)にての生活を体験し、<この時の体験記「インド彷徨の旅」ご希望の方に差し上げます。但し残り僅か>さらに、平成2年に、檀信徒の方と参拝。平成6年、日蓮宗名古屋青年会主催での参拝、平成10年には数度、インドへ訪れる機会に恵まれました。

 今回の巡拝は、友人の浄昇寺様(山川潮暎上人)の団参(5人と法筵寺3人)に参加させて頂いたもので、私自身あえてこうしようとか、こうすべきということを考えずにただ就いていくだけで、何事にも抵抗しない・流れのままを実行してみました。すると、すべての行程において、予定より早め早めの到着となり、本来インドでは遅れて当たり前の国ですが、そんなものかなと思いました。
 お釈迦様は晩年、ラジギールにある霊鷲山(りょうじゅせん)に おいて法華経を説かれました。今でも、当時のままですが、そんなに広い場所でもありませんし岩山です。しかし、その地において法華経が説かれてお経に書かれてあるストーリーが展開されてのですから、時空を超えて、その場に接する事は感慨無量です。読経中、風を感じていました。「この風を私と感じなさい」といわれているような気がして、皆さんにもお話したのですが・・・?ブッタガヤの大塔の裏にある菩提樹の前での読経では、太陽が燦燦と・・その時にも「この光を感じなさい」とそんな感じを受けなんだかうれしくもなりました。
さまざまな聖地がありますが、その時々に「実は、みんな一体なのだよ」というメッセージを受け取っているのでしょうが、ピンとこないのは私たちのせいなんでしょうね

 今回、驚いたのは、あの霊鷲山の山頂から、ナント、携帯電話で日本へ直通電話が掛けれてしまうことでした。現地ガイドの話によれば、2〜3日前からのことだそうです。実際、ある先輩と会話しましたが、なんだか有難い様でそうでないような、複雑な思いです
まだまだ、お話することは沢山ありますが、まずは、その時の写真も別にUPしましたので、是非ご覧下さい。もちろん、インドまで行かなくても、お釈迦様はいつでもあなたのそばにおられます。でも、インドという国に住む人々を通じて得る事も考えさせられる事もあります。皆さんも機会があれば、是非どうぞ! ナマステ
 
写真集をUPしましたので、併せてご覧下さい。〔ガンジス川の朝日〕


23.〔平成17年2月版・平成17年2月1日更新〕
 法筵寺では、1月30日恒例となった「開運節分会」が開催(毎年、1月の最終日曜日)され、今年は、天気にも恵まれ、例年を上回る参詣者で賑わいました。
節分会では、特に日蓮宗の大荒行を成満(修法師といいます)された僧侶による祈祷が行われます。
法要では世界の平和を祈り、水行(水をかぶります)は住職を含め4名の僧侶によって行われました。個別祈祷では、それぞれの願いを込めご祈祷を受けて頂き、続いて、豆まきを行って、福引きも楽しんで頂けたと思います。 私自身、この節分会は、お祭りであると考えています。僧侶による真剣な祈りを体験して頂くと共に、大人も子供も「法筵寺の節分だから楽しい!」と感じて頂けるよう、又、このご縁を通じ、皆さんがさらに幸せになって頂く機会となればと願っています。 尚、この模様については、「行事の報告」に写真があります。

 
昨年末に起きたスマトラ沖地震や津波の被害者は、ついに30万人を上回るようです。津波の怖さを知らなかった、情報が行き渡っていなかったとは言え、その犠牲となられた方々の数の多さには驚くばかりです。ご冥福をお祈りすると共に、私たちの魂の一部分では一体であります。その経験は決して他人事ではありません。私たち自身、その経験を生かしていく事が大切であります。

 再び、節分に関連して、節分では「福は内、鬼は外」と言って豆を撒きますが、中には、「鬼は外」は言わないという所もあるようで、それには様々な理由(理屈やいい訳)があります。
「福は内」については説明するまでもありませんが、「鬼は外」についての見解は、言わない分、それぞれにたくさんあると思います。私が思うに、この世は相対的にできていますから、幸福の反対が不幸で、プラスの反対マイナス面は全部、否定ですから、それが鬼ということにもなります。しかし、この鬼という状況、存在がなければ、幸せ、幸福、満足、健康も感じることができません。
人生においても、幸、不幸を感じてきたのは、その両者があったから経験できたと言えます。そうなると一概に、「福だけ内、鬼は外へ」ということではなく、両方の面を感じていくことが大切なことになります。
 
善・悪も同じで、良き事と思えど相手にとって反対になる事もあります。もちろん、その反対もあり、両者が存在することで善悪は分かります。但し、善悪は判定するのではなく、ひとつの出来事と捉えることが肝心です。ローソクの明かりも暗きところでは、その存在と重宝されますが、太陽の輝きの中では全く、その力は感じることができません。
 
すべて、この世は相対的にできていることを忘れないことで、自分の置かれた状況や心理状態が分析できます。短絡的に安易に、「私は不幸だとか、最悪だとか、もうダメだ!」と思わないことです。何故なら、そういう否定的な考えこそ「鬼」です。
 
実は「鬼」の存在は、自ら持っているもので作りだしていたのです。でも、時には必要な時もあります。それによって向上できたり、自分を知ることにもなります。となれば、「福は内、鬼も内」なんでしょうね。
〔ご祈祷を受ける子供たち〕

22.〔平成17年1月版・平成16年12月28日更新〕
 平成16年もあとわずかとなりました。今年は、本当に多くの災害が起った年だと思います。各地に浸水被害を与えた台風の上陸数は記録を伸ばしました。さらに新潟県を襲った中越地震も復興はこれからで、やっと、最近になって一部の人たちが仮設住宅に移動されました。
ところが、この文面を書いている時に、衝撃的な映像とニュースが飛び込んできました。インド洋スマトラ島沖でM9.0の大地震です。時間が経つにつれて、周辺の国々や島々では、津波による大変な被害が出ていると分かってきました。被害に遭われてた方の中には、日本人も含まれています。詳しい事は、さらに時間の経過で判明されるでしょうが、毎回、防災について語ってきましたが、津波の恐ろしさを見せつけられるとは思いませんでした。人々とつながっている。私たちは一つである。という言葉を思い出すたびに、辛く悲しい思いがします。しかし、もう一方では、私たちに重大なるメッセージを与えられていることを忘れてはなりません。

 間もなく、平成17年を迎えます。干支は酉(とり)年ですが、十干を加え、
乙酉(いつゆう/きのと・とり)という言い方もあります。これは60年に一度巡ってきますが、前は昭和20年でした。この年は言うまでもなく、第2次世界大戦が終戦の年ですが、その年には、各都市に大空襲があり、さらに広島、長崎と原爆が投下され悲惨な戦いが終わりました。又、あまり知られていませんが東海地方には大地震も発生しています。
 酉は、革新を意味し、新しい勢力の盛り上がりで、まっすぐに伸びようとしますが、乙の影響で屈折する象と書いてあります。計画はされるでしょうが、なかなか実が伴ってこないということでしょうか。「急がば廻れ」という精神が大切と書
いてある本もありました。あくまで参考でいいと思いますが、いづれにしても私たちの想念で世界は動いているということは忘れないで下さいこの地上世界で生きると言う事は、様々な出来事が起きるということです。
今、目の前に展開していることは、すべて私たちの思考の結果です。なぜなら、すべて私たちは一つだからです。他人と呼んでいる人の思考も、実は自分自身の一部です。そんなことは考えられないと思いますが、バラバラではないことが理解できたら、今、自分なら何をすべきかが分かるのではないでしょうか。このままでいいのだろうか?何かしなくてはならないのでは?一人一人が意識を少し変えるだけで世界が、そして自分も変わるのではないでしょうか。
今、まさに、その時が来ています。
 平成17年が皆様にとって良き年でありますよう、お祈り申し上げます
〔伊勢湾の夕日〕


21.〔平成16年12月版・平成16年12月1日更新〕
 日が暮れるのが早くなってきました。朝夕の寒さも徐々に増してきます。本年もあと1ヶ月となりましたが、新潟中越地震や豪雨など被災された方々の中には、まだ避難所での生活を余儀なくされている方が大勢おられます。同じ日本に住む者として、一刻も早い復興を祈るばかりですが、私たちにも、いつ同じようなことが起きるかは分かりません。絶えず防災の意識だけは持っていましょう。

 世間では、今の子供たちは昔の子と比べると何だか違ってると時々聞きます。私の3人の子供も年齢が下がれば下がるほど違ってみえます。違っていると言っても、単に変わっているという単純なことではなく、それぞれに共通点があるようです。これには何か理由でもあるのだろうかと思っていたところ、実に興味深い情報や本を読む事になりました。
それは「インディゴチルドレン」「クリスタルチルドレン」と呼ばれる子供たちのことで、はじめて聞かれた方も多いと思います。実は、この子供達は両者とも、私たちの地球上の存在が、愛と平和に満ちあふれた新しい世界に次元上昇するために、それを助ける(導く)ために地上に転生してきた愛の使者(仏・天上界からの使者)だと言う事です。
今、世界はあらゆる面で混沌としています。この先、世界はどうなるのか、極端に言えば人類滅亡の危機とさえ言われています。では、どうしたら世の中を変えていく事ができるのかでしょうか。そんなために生まれてきている子供たちが世界中に、私たちの周りに、そしてあなたの子供さんもその一人として生まれてきているのかもしれません。

 具体的には「インディゴチルドレン」は、今の時点で、だいたい7歳から25歳くらいまでの人の中で、オーラが「インディゴブルー」をしていて、この年齢の範囲でも、だいたい15歳以下の子供達の90%くらいは、インディゴだと言われています。このインディゴたちは、その集合目的が、もはや無用となった古いやり方(政治、教育、法律、宗教などの既存の手放さなければならないシステム)をつぶす事にあるという事が言われています。したがって、その使命達成のために、激しい気性と烈火のごとき決意を持っていると・・・例えば、一度泣き出すと止まらないなど。しかし、インディゴたちの中では、4種類に分類されていて、それぞれが目的をもち、その目的に応じた性質を持っていると書いてありますから、もっと知りたい方は本を読む事をお勧めします。

 
そして「クリスタルチルドレン」は、インディゴとは対照的な性質をもっており、至福に満ちて、気性も穏やかなのだそうです。年齢的には、だいたい7歳以下の子供達で、地上のほとんどの子供達が、それにあたるようです。クリスタルたちは、インディゴたちが切り拓いた道の恩恵を受ける世代で、私たち人類の行方を指し示してくれる存在だということです。「まず、インディゴたちが、筋の通らないものの全てを、なたで刈り取り、次に続くクリスタルたちが、より安全で揺るぎない世界へと道ならしをするのです」というように書いてあります。
 紙面の都合で大まかな事しか書くことができませんが、今、子育ての真っ最中の方、又、お孫さんと接していて何か違うと感じ、それが性格的、遺伝的、環境のせいでもないのにと思われた方は、一度「インディゴチルドレン」「クリスタルチルドレン」という面にも注目して下さい。お子さんの意外な一面を知ることができ、未来の希望も見えてくるはずです。これは宗教の教えとか云々ではなく、時代の流れの中の要求された出来事であると思います。
詳しくは本をお読み頂くことをお勧めします。いずれの本も、同タイトルで出版社はナチュラルスピリットです。
〔名古屋駅のイルミネーション〕


20.〔平成16年11月版・平成16年11月1日更新〕
 台風23号で兵庫県の豊岡市が、大変な水害を受け回復する間もなく、新潟県で中越地震が起きました。台風の大雨の後でもあり、山間部では、大きな被害となり孤立する村や町から、自衛隊や防災関係のヘリコプターで、多くの老人や子供たちを救出する映像を見ていて心が痛む思いがしました。
科学が進んだ国であり、豊かになった日本です。しかも国土は狭いはずなのに、一旦、災害が起きると人間の無力さを感じざるを得ません。
 特に、中越地方は豪雪地帯と言われています。このままの状況で雪が降れば雪解けの季節まで復旧ができなくなります。各地で、被災されました方々には、心よりお見舞い申し上げ、一刻も早く復旧されますことをお祈り申し上げます。
 
TVでは、この地震のニュースを取り上げながら、予想されている東南海地震では、今回の地震の30〜50倍の威力であると報じています。しかも、太平洋で発生すると各地で震度6以上の地震の後に、海の近くでは津波という被害が予想されています。以前にも、HP掲示板で書きましたが、5月に、所轄の消防署から東南海地震に対しての説明会と、それに伴う防災に関する資料の提出を求められました。これは国から県、県から市への防災指定地域への指導だそうですが、特に指定されるというのも、複雑な心境です。地震に限らず、各地の水害等を目の当たりにし、一層の防災の意識高揚を図りなさいということだと思います。

 以前、一人の男
性が訪ねて来られ、「自分にあった仕事が見つからないでのですが、何が自分には合っているのでしょうか?」という相談を受けました。これは、誰でも悩む事ではないでしょうか。「今の仕事は、本当に自分に合っているのか」とか「仕事がつまらないのは自分にあっていなのではないか」とか。一体、天職や適職というものは、どういうものなのかとなります。
そこで、天職と適職について考えてみます。まず天職と適職は違うということです。よく混同しますが、はっきりと違うものであります。天職というのは、それこそ天から授かった、いわゆる宿命のようなもので、心からやっていると楽しい、自分の魂が喜ぶような仕事です。一方、自分の能力や肉体的な部分を使って、生きるため(お金を稼ぐため)の仕事が適職というものです。 ですから、なかなか天職と適職が同じと言う人はほとんどいません。なぜなら、天職は収益にならないのです。これに付いて、私の体験として言いますが、僧侶という仕事をしています。これは本来、適職の範疇です。
しかし、一方では、宗教者であるという自負心が働いています。このことが整理されていなかったため「世のため、人のため」と思うあまり、そのことで、葬儀のお布施が頂けなかったことが1,2度ありました。でも、それは宗教法人の代表責任者としては失格なのです。経営者としては才能がないのと同じです。仮に、皆さんが好きな仕事をしても、使われる立場から、使う立場、すなわち経営者になったら、そのことを考えないと行き詰まります。
 天職と適職は車の両輪と同じで、両方に同じように比重をかけないと前に進みません。でも、これはすごく難しい事かもしれません。まずは、どうしても好きな事をと思うならば、生計を支える仕事は仕事として、そして好きな事はボランティアとして、自分の時間を作り、世のため人のために行うことがベストではないでしょうか。私は、まだまだ両輪のバランスをとることは下手なようです。世の中には、上人が商人と言う人もいますが・・・。
〔晩秋の東大寺〕


19.〔平成16年10月版・平成16年10月1日更新〕
 
今、世間を騒がしているのは、やはりプロ野球のことでしょうね。9月18、19日には、初のストライキが行われるなど、今まで野球選手がストをするなんて、誰も予想しなかったことでしょう。ストが実行されたことで、又、新たな展開へと進んでいくのしょうね。まだ、結果は出ていませんので、来年の開幕には、大きく流れが変わることでしょう。
それぞれの世界で良くなるためなら、勇気をもって改革を進めるべきだと思います。
 それにしても、地元、中日ドラゴンズのマジックが点灯しています。気になるのは、ドラゴンズが優勝する時には、何故か、世の中が変化する時や異変がある時だと思うのですが、気になる方、是非調べて下さい。
 9月25・26日と恒例となりました、第27回目の七面山団参が20名の参加で開催され、全員無事に登ることができました。お天気にも恵まれましたが、ご来光があともう少しと言うところでした。来年に期待しましょう。
(写真は奥の院へ行く途中の「二の池」から撮影しました) 
 今年は、猛暑の為に、登山の途中にある晴雲坊(36丁)の休憩所では、名物のおでんが売れず、さらにお茶の接待も、だれも見向きもしなかったとの事です。こんなことは珍しいと、やはり暑さは、さまざまな所で影響があるのです。
又、最近では、JTBとか近畿○○などの旅行会社が、七面山登山ツアーなるものを売り出し、そのパンフには、お寺で泊まります。肉は出ません。お勤めに参加します。などと書かれています。丁度、隣の部屋に、20名程の初老の方が参加している「山○○教室」なるツアーの人たちが泊まっていました。当然、信仰団体ではありませんが、本堂でのお開帳や夕勤(夜の法要)に、見学者として椅子に座って参加していました。しかし、その人たちから見ると、一生懸命、祈る我々の姿も見学される対象の一つなのかもしれません。丁度、海外へ行って、寺院やモスクを見学した時、熱心に祈る彼らの姿を遠巻きに見るが如くに・・・・。段々とこうなってくるのかなと思うと、とても複雑な思いがしました。


 
10月13日は、日蓮大聖人がお亡くなりになった日です。仏教的には、ご入滅といいます。1282年(弘安5年)のことですから、今から722年前です。時代は鎌倉時代で、源頼朝など武士が主流となり下剋上とか、天皇が島流しとなる承久の乱、さらには蒙古国が日本を攻めようとしている時で、各地では地震や飢饉、伝染病が蔓延するなど天変地異も続いているような混乱の時代でした。
 
仏教には、正法・像法・末法という時代観があって、お釈迦様が亡くなられてから、最初の一千年を正法時代といい、次の一千年を像法時代といい、二千年以降は末法万年といい、その時代は、正しい教えが隠れてしまい、反対に人々を混乱させるような誤った教えや思想が氾濫し、さらにその時代に生きる人々も、心が荒んでいて正直に生きることが難しい世の中になると予言されています。まさしく現代も同じようです。
 丁度、歴史的には鎌倉時代が末法の時代に入りますので、この世を救わんとする各宗派の開祖として、多くの聖人が誕生されました。ちなみに親鸞聖人が50歳の時、日蓮大聖人が誕生しています。
 日蓮大聖人は、法華経こそ、お釈迦様の説かれた真髄であると、身体と心(魂)で体得されます。そして、「私は、末法と言う時代に、法華経の真実を説くために、この世に誕生してきた、そして、法華経に説かれるところの上行菩薩の再誕である」と自覚され宣言されます。
 もちろん、私たちは、そこまでは宣言できませんが、お釈迦様や日蓮大聖人の魂と一部が繋がっているとしたら、あなたはどうしますか?そして、今、地上で悲惨な戦争や天災、事故で亡くなっていく人とも繋がっているとしたら・・・。
〔七面山から富士山を望む〕


18.〔平成16年9月版・平成16年9月1日更新〕
 
平和の象徴・スポーツの祭典と言われる2004年アテネオリンピックも閉会です。特に今回は、日本の選手たちの活躍が目立ちました。柔道に始まり、競泳、体操、マラソン、さらに女子レスリングとメダルが続きました。寝不足になると分かっていても、ついついTVの前から離れる事ができません。皆さんは如何でしたか。
 高校野球も、初めて北海道へ優勝旗が渡りました。決勝戦は、最多得点となる試合で、どちらが勝っても文句なしのゲームでした。
 各プレイヤーが肉体の限界に挑戦し、かつ技や速さを競う、ルールを守りフェアプレイによって成立しているからこそ、観ていても感動しますし応援できるのでしょう。 運動が苦手な私には、選手たちの鍛えられた筋肉と不屈の精神、そして勝った時の笑顔に勇気と感動を貰い、賞賛を送るのみです。
 でも、同時に愚かな戦争しているのは許せません。


平和の祭典であるオリンピックに世界中の人々が集うのを見て、人類とは何だろうと考えてみました。
地上には、60億人以上の人間が住んでいます。それぞれの地域に社会を育み、文化を作ってきました。さらに、国家、民族、宗教等によって、さまざまに分類されてきました。でも、この分類は表面的なことであり平等ではありません。生まれた場所(国)が違う、国家の思想、宗教が違う、肌の色が違うと言うことで、相手を見下したり、認めようとしないのはおかしい事だと思います。・・・・理由の一つには、そのように親や教師に教えられたからと言えますが。

 しかし、ただ一つ、誰でもが理解できる事として、そして人類が平等なのは、人間として生まれたら、やがて年をとる、病気になる、そして死ぬ事
です。
では、さら
に共通している人間とは何?どんな生き物?と探求していくと、それは、いかなる人間であろうとも、人間は「魂」と呼ばれる霊的な部分と「肉体」と「精神」の、いわゆる三位一体で出来上がっている、ということです。その姿・状態で、あらゆる世界の環境に生まれ、個々の肉体を通じ、さまざまな出来事に対して心・魂の向上を目指している。その姿こそ、人間としての本体の目的であります。
 特に、オリンピックのように世界中の人々がスポーツを通じて肉体と精神力の向上を競い合うことなどは、まさしく人類共通の証しでもあります。共通しているからルールも通用し、人類は皆同じだよと表明しているようなものです。
TVに映し出される力持ちの人、足の速い人、泳ぎの得意な人など、それぞれのDNAが皆、私たちの肉体のどこかにわずかながらでもインプットされているのでしょう。さらに、魂の次元で言えば、その元は一体ですから、皆の魂が一喜一憂し感動するのも当然です。 でも、このようなことを申しますと必ず言う人がいます。「それは宗教的な考え、あなたの宗教でいう世界のことでしょう。」と。しかし、よく考えれば、別に宗教者が言い出した事でもなく、又、思想や哲学でもなく、単純に「人類」がこの世に誕生してから始まっていることです
私たちは学校で、理科や化学、物理の時間で人間は(特に肉体)このように出来上がっている、専門的になればなるほど詳しく習ってきました。しかし、そこには、目に見えない霊的な部分は教えられていません。当然といえば当然で、解明も証明もされていませんから、教えようがありません。反面、表面的な部分では一方的な分類がなされ、ゆえに、外見的なさまざま差別が生まれ、不幸な境遇に立たされた人々の苦難は歴史が語る通りです
しかし、霊的な部分を思い出し、その存在意義を知った時には、今までの分類は自然淘汰され、本来の人類がこの世に誕生している意義が問い正され、大きく変わることになります。
もちろん、これらのことは、表現は違えども、お釈迦様やイエス・キリスト様をはじめマスター(覚者)と呼ばれた先師は説いておられます。ただ、後世の人間が勝手に理解を歪めていったのです。(理解できなかったのでしょうし、その時点では都合が悪かったのかもしれません)シンプルになればなるほど、真理に近づくと思います。
 確かに、あなたの考え方は間違ってはいないかもしれませんが、今、人々は何を求めているのか、心と考え方を広げなくてはなりません。私もそう思い努力を続けます。
〔富士・白糸の滝〕


17.〔平成16年8月版・平成16年8月1日更新〕 
 山間部では、夕方にでもなれば蜩(ひぐらし)がなき始め情緒もありますが、ここら辺りでは、日中から夜中まで、油蝉のオンパレードです。暑さも一段とこたえます。
新潟、福井各県では、集中豪雨で大変な被害がありました。お寺も数ヶ寺、被害があったようです。被災されました皆様には心よりお見舞い申し上げます。この地方でも、数年前の9月、東海豪雨があり、今でもその災害による復旧並びに防災工事が続いています。私たちも常に防災の準備を怠ってはいけないと思います。

 中日新聞の7月23日朝刊によると、全国で昨年1年間の自殺者の数が、3万4427名で過去、最多であると報じています。交通事故死者は7千702名ですから、その4.5倍の数です。
その原因を調べると、「経済・生活問題」の動機が8千892名で全体4分の1です。
個々の動機は「健康問題」が1万5416名、「経済・生活問題」は957名、「家庭問題」が182名、「勤務問題」が114名。年齢別では、60歳以上が1万1529名で最多、50代が8千614名、40代が5千419名、30代が4千603名、20代が3千352名、19歳以下が613名です。男女別では、男性が2万4963名で、7割にあたります。職業別では「無職者」が1万637名と全体の47.4%で、会社員など「被雇用者」が8千474名、「自営者」が4千215名であるとのことです。
 しかし、これは現実に命を絶った人たちの数であり、自殺未遂や自殺願望を入れれば、相当数になるでしょう。
これらの現状を読んだ時、自殺を図った人たちは、それぞれ理由があり、言い分もあるでしょうが、果たして命を絶って、本当に問題は解決しましたか?と聞いてみたい気持ちです。
今、多くの機関や宗教界では、自殺を食い止める、やめさせようと努力もなされていますが、しかし、その声は届いているのでしょうか。
 何故、こんなに多くの人が安易に自殺をしてしまうのかという理由に、秋田大学病院の中永先生は「自殺を図った人たちは、本当の信仰とか、あの世の話を拒絶する人ばかりでした。それに加えて、相談できる相手がいない。戦後の唯物的な教育や思想の普及が、『死ねば終わり』という人生観を生んで、それが自殺の温床になっていることは確かです。」と言われています。
 「死んだら終わり」という人生観では、どうせ死んだら何も残らない!どうせならやりたい放題!人の見ていないところだったら何をしても構わない!盗みでも、ごみ捨てだって関係ない!まじめに生きるやつは馬鹿だ!それこそ無責任な生き方です。でも、このような考えの人多くありませんか。こんな悲しい人生観に誰がしたのでしょう。
 しかし、事実は正反対で、肉体は滅びても、あなた自身の魂は死なない。生き続けているとなったら、どうしますか?
生きていくのが、様々な理由で辛くなったからと言って、肉体だけ殺しても、あなたの苦しみの意識だけは残ることになります。しかも、それはあなた自身の意識で納得しない限り、問題解決しないと、その苦しみは永遠に続くのです。
 自殺とは、自らの肉体を無理やり停止させるだけ、心はそのまま、まさしく今、あなたが考えている、そのままの状況で、ただ肉体がないだけが死です。そんな状況辛くありませんか。
 私たちは、この世に、本当は幸せになるために生まれてきたのです。自分の思い通りに行かないからと言って、我慢もせず努力もせず死んでも、その続きをするだけです。どうせなら、胸を張ってこの世とお別れすべきです。
 今日までのことは、すべて過去のことです。過去を悔やむより、明日のことを考えましょう。
そして、あなたのことを信じて待っている人がいることを忘れないで下さい。 
    《ストップ!ザ・自殺》 今一度、周りを見渡してください!
〔雁道七夕祭り〕


16.〔平成16年7月版・6月25日更新〕
 今年、早々と来襲しました台風6号、やっと、庭に白い花を咲かせていました沙羅双樹の木が、暴風雨によって途中から折れてしまいました。 しかし、これには、原因があります。実は、昨年の夏、何者かが境内のお社にいたずらをし、さらに沙羅双樹の木を途中から折っていったのです。折られた、幹は5分の1しか付いていませんでしたが、応急処置をしました。今年に入り、なんとか葉も付き、花もたくさん付いたのでホッとしていたのですが、やはり素人の処置でしたので、無念ながら完全に折れてしまいました。すごく、ショックでした。

 いつでもお参りして頂けるよう、夜中は閉めますが、平素、門は開かれています。どのお寺でも、大体そうだと思います。池上の本門寺さんでは、山門の柱に犬がおしっこをかけていくので、なんとかならないでしょうか。というHPを見ました。
私のお寺の前の花壇も同じような被害?状況でしたので、全面的に柵を作り、きれいに花を植えましたら、そういうことはなくなりました。その他にも、お寺や神社では、賽銭泥棒やさまざまなトラブルがあるようです。
いつでもだれでも気軽にお参りして頂くことで門を開けておくのですが、心無い人の行為によって、いやな思いをしなければならない、悲しい事です。
 
 小学生6年生の女児が、同級生を殺害するという事件がありました。皆さんもびっくりされたことと思います。その後も、中学生の女児が、知り合いの5才の子をマンションの踊り場から突き落とすということもありました。通常では考えられない事が次から次へと起きています。
 こんな事件が起きる度に、学校が悪いとか社会が悪いとか、無責任に言われています。6年生の女児の場合は、インターネットで自分のホームページを開設し、さらに掲示板でやり取りをしている中、その延長線上で事件になったとあります。どうでしょうか。皆さんの中で、自分でホームページを持つということ、そのこと自体、まったく意味すら分からず対処できないギャップを感じませんか。今の小学5年生にアンケートしたところ80%が、コンピューターを操作しインターネットを利用したことがあると統計にあります。しかし、子供がインターネットで、どんな内容を見たかチェックした親は、わずか7.9%しかありません。正直、私も含め親がついていけない、そんな時代になってしまいました。
 話を戻しますが、このような事件が起きる背景はたくさんあるでしょうが、ただ言える事は、この女児は、自ら「殺してやる」と殺意があったということです。「殺す」という思い・念があり、それを口に出したり、文章にしたりする、その結果として、殺人を犯した(現実化した)というのが経緯です。
 時々、お話しますが、私たちの人生すべて、思考→言葉→行為(結果)の流れで創造されています。それがどんな悪いとされることでも、反対に良いことでも、すべてそのような流れです。まず心に思うことが未来に対し、大きな影響を与え、その結果を引き寄せることになるということを認識しなくてはなりません。
私たちは、時に、悪い事をしていても(仮にそうでないと思っていても)いつかは、神様や仏様がストップをかけて下さると思っています(思いたくなります)。しかし、自ら考えて行動しているのですから、自らストップをかけなければ、その状態は続くということです。自分の都合で勝手好き放題していて、そろそろ神仏が止めてくれるだろう、なんて調子のいいことはあり得ません。もちろん神仏のご加護はありますが、それも本人次第です。
常に、あなたの思う通りに現実は進む、展開するということを意識しなければなりません。
〔在りし日の沙羅双樹〕


15.〔平成16年6月版・5月25日更新〕
 連日、年金の問題が報道されていました。国会議員の多くも、過去に未払いの時があったと発表されています。議員の皆さん、いろんな理屈や、言い訳を言っておられますが、やはり、制度が単純じゃないのでしょうね。切り替えなど自動的でないから、つい忘れてしまうみたいです。
それに国民の、特に若い人たちの未納が多いと聞きます。この先、年金をもらう人が増え、払う人が減る。当然バランスは崩れますから年金改革をすることは必要でしょうが、「百年の計を立てるのならば、1年焦って百年失敗するより、1年じっくりと計画して百年持たした方がいい」と思うのですが、素人の判断でしょうか?それとも、またすぐに変更するつもりでしょうか? 
 いづれにしても、「年金」については、国民に今まで以上にはインパクトはありました。・・・でも、すぐに忘れられてしまいそうです。
5月22日、北朝鮮に拉致されていた、蓮池さん、地村さん夫妻の子供さんたちが、ついに日本の地を踏みました。元はと言えば、ごく普通に生活をしていた人が、ある日、突然、違う国へ強制的に連れ出され、しかもその地で生活を始めさせられたということです。その心中を察するに考えられないような苦悩の日々であったと思います。さらに、残されたという表現は適切ではありませんが、家族の方々にとっても苦しみと悲しみの毎日であったと思います。

 
今、こうして親子共々、親族との再会ができました。これからはお互い複雑に空いてしまった溝を埋めていくことになります。特に、子供さんたちは、さまざまな葛藤があるでしょうが、周囲の人々が温かく見守っていくしかありません。又、曽我さんは「私って、なんてややこしい人生になってしまったんでしょうね」(中日新聞H16.5.25記事より)と語っています。今回、ご主人の問題で、曽我さんの家族は日本へ来ませんでした。今後、政治的、人道的、様々な角度から、最も良い曽我さん一家の解決が図られるでしょうが、私たちはその経過をじっと見守るしかありません。

「ややこしい人生になってしまった」と表現されるように、同じ人間として誕生してきたのですが、時には人間が人間を人間として扱わない、そんな身勝手な生き方の人たちによって、多くの人の人生が翻弄されてしまいます。とても理不尽なのですが世界は、そんな風に出来上がっているようにも思えます。それゆえに今も続く戦い、虐殺、貧富の差、飢餓で亡くなっていく人々がいます。みんな口では”平和”を言いますが、有史以来、一時でも世界中で戦いの無かった時はないのでは?ないでしょうか。
今は、ただひたすら人間が持つ良き英知によっての解決と勇気と英断が望まれます。でも、あえてそんな中に飛び込んできているのかもしれません・・・。


 
人間関係において大切なひとつに「今、愛なら何をするだろう?」とあります。絶えず「愛」が優先していれば、人が悲しむような出来事は起きないのです。つい怒ってしまう、愚痴ってしまう、許せないと思ってしまう、様々なマイナス感情が起きます。当然、健全なる人なら起きる感情なのです。起きないようにすることは、はっきり言って無理です。抑え続けても貯めておけば、いつかは爆発します。 でももし、そんな感情が起きたら、起きた時に「その言葉取り消し!」と続けて言えばいいのです。強く否定することで、その感情は消えます。一度お試し下さい。いつまでもマイナス感情を心に貯めておくからいけないのです。
〔あじさいは間もなく満開になります〕


14.〔平成16年5月版・4月25日更新〕
 4月に起きたイラクでの日本人人質事件は、さまざまな意見があり考えさせられます。
特に、今回は「自己責任」ということが取り上げられていますが、影響を与える範囲が大きくなればなるほど、自己責任という難しさを押し付けられます。
 今までにも、海外においては身代金目的や、政治的な人質・誘拐事件がありました。ある時は、「人の命は地球より重い」とうことで、犯人の要求を受け入れたり、又、企業の場合は、ほとんど知らない内に解決されたりしています。(すべてが成功している訳ではないと思いますが)今回は、「自衛隊を撤退させろ」と要求されていましたので、いくら「自分で好き勝手に行ったのだから」と言っても、日本国としては知らないとは言えません。
それに世界中に大々的にニュースで公開されましたので、対処せざるを得なかったでしょうし、その矛先をどこに向けるかであったと思います。結果的には5人とも解放され、無事帰国できたことは喜ばしいことですが、改めてこの問題は取り上げられていくと思います。 

日常の社会生活でも同じで、現代人は自由ばかりを主張していますが、自由が認められると同時に、自己責任も問われることは当然のことで、人権を主張するならば、その行動や態度、もちろん考え方にも責任を持つことは、社会人として当たり前の義務です。自分の都合ばかりで、その上、自由や人権と、皆が言い出せば、世界が、いや家族でさえまとまる訳がありません。
 一人でいる時は、寝転がろうが、逆立ちしようが、裸でいようが構わないのです。しかし、もう一人他人(それが親子・夫婦・兄弟でも、どんな家族であっても)が加わった瞬間から、相手の事を気にしなければ、必ず不平不満が募り、やがて対立となっていきます。個人格から社会人格の二面を持ち合わせていることを自覚・意識すべきでしょう。 

学習会が15名の参加を得て新たに始まりました。私自身にとっても新たなる意気込みで取り組もうと望んでいました。しかし、そのためには試練のようなものがありました。学習会を始める数日前のことで、内容は、他人が聞けば、「大したことないよ」といわれそうですが、本人にとってみれば、分かりきった失敗、自らの弱点、欠点をさらけ出したようなもので、そんな自分を責めていました。そんな時、「自分の欠点や弱点、失敗等がよく分かる時は、今の自分を脱ぎ捨てようとしている時なのです〜中略〜それは、もう一段、成長する時なのだということです」という言葉を読んだ時に、思わず涙が出そうでした。心のもやもや、息苦しさから抜け出すことができました。 どうしてなんだ!なんとかして!と叫びたくなる時ありますよね。いつでも、神仏はそばにいてアドバイスを送っていると言われていますが、その情報を目にし、手に取るか否かは、やはり私たち自身です。

 新緑のまぶしい季節です。外へ出て大地とコンタクトしましょう。いつでも神仏を感じる事ができます。


13.〔平成16年4月版・3月24日更新〕
 
このHPも、お蔭様にて、1周年を迎えることができました。
始めの頃は、素人(今もそうですが)の手作りで、いろんな失敗の連続でしたが、それはそれでよい勉強になりました。
HPを開くごとにスタイルや内容が変わっていて驚かれた方もいるのではないかと思います。
 
カウントも、1年間で4900でした。多いのか少ないのか分かりませんが、言える事は、このHPをご覧になって、お寺や外氣功療法に多くの方が訪れたと言うことです。もし、何もしていなかったら、皆さんとお会いすることはありませんでした。ご縁が結ばれなかったということです。
 まさにIT文明の力であり、これからも発展していくでしょうから、ナントかついていくしかないと思っています。
 まずは、続けれたことに感謝いたします。

 3月17日は、母の27回忌でした。(父は25年)すでに両親と生活した時間よりも、その後の方が長いです。3月3月に美輪明宏さんの講演会が開催されたことは、先月お話しましたが(お寺と掲示板で)、美輪さんについては、両親との思い出があります。それは、美輪さんが、まだ丸山さんと名乗っていた丁度「ヨイトマケの唄」(昭和40年7月発売)を出した頃から、母親がファンだったことです。

 私がまだ小学生で、蓄音機でドーナッツレコードの「ヨイトマケの唄」を毎日、聞かされた?思い出があります。
 美輪さんのどこに惹かれたのか、当時は分かりませんでしたが、先般の講演会で、美輪さん自身「きれいな心の人が一番である」その裏づけには、第三の目〔眉間にあるチャクラ・目に見えないものが見えるという力〕が備わっていて、相手の心の中が見えてしまうというものです。相手が、何を考えているかが分かるということは、きれいな心の人と接っしている時は、すごく気分が良いでしょうが、そうでない人では、邪悪な波動をまともに受けることになり、とても苦しいと思います。
 実は、同じような力が、母親にはありました。ですから信仰に対しても、物事に対しても、特に人から布施を受け取る時は慎重でした。相手の想いが直接伝わってきたようで、お布施と同時に、その強烈な想いや願いも受けていたようです。ですから、きれいな心の人からは、素直に感謝して受けれたのだと思います。
 当時、その感性で、すでに美輪さんの仏性・神性を感じていて、ファンだったのかもしれません。それに法華経の大信仰者でもありますから、意識レベルにおいては通じていたのでしょう。

 父についても、衣を着け、どんなに遠いお宅でも、雨の日も雪の日も炎天下の日も風の強い日でも、黙々と自転車で、ご回向(お経を上げて供養すること)に伺っていました。そんな時「ヨイトマケの唄」は、歌詞は違えどイメージは、父の姿とダブり、子供ながらに胸にくるものがありました。今までも、何度となく、この唄を聞くたびに胸がジーンときます。
 そんな訳で、今回の年回忌と講演会は特別な想いとなりました。

 これを書いている時、故いかりや長介さんの葬儀のニュースが報じられていました。国民的にも多くの人気があって、私も「全員集合!」を見て笑っていた記憶があります。葬儀式は日蓮宗で行われていたようで、最近では、故サンダー杉山さん(プロレスラー)や、他にも有名人の方(どなたか教えてください)も、日蓮宗だったようです。同宗門人として、心よりご冥福をお祈申し上げます。


12,〔平成16年2月24日更新〕
 
2月20日、長男の卒業式が行われ、私もPTA会長として参列し祝辞を述べさせて頂きました。校則が他の高校に比べ、かなり厳しいところでしたが、私は、高校生らしくていいと思っていました。(街で見かける高校生は、あまり高校生らしくないですから)生徒も厳しいながらもルールを、それなりに守って3年間過ごしたことと思います。
 校庭で、先生や在校生に見送られていく中、一番厳しく、いつも怒鳴っていた先生の所へ、みんなが駆け寄っていき、中には、抱き合いながら、涙を流す男子生徒や、先生に「最後にもう一度、頭を叩いて下さい」と頭を出す生徒に、笑いながら軽く叩く先生と生徒を見ながら、厳しさの中にも、本当のやさしさと愛情があったのだと、とても、すばらしい高校生生活を送れたことに、先生と生徒に心からエールを送りました。
 そして、私自身も、良き学校の重職が務めることができたことに感謝しています。(まだ任期は残ってはいますが)

 前日の19日は、次女の卒業記念(次女も卒業)の合唱祭が、愛知芸術文化センター・コンサートホールで行われました。毎年、この時期に開催されており、全校生徒が、各クラスに分かれ課題曲と自由曲を合唱、3年生は全員で「思い出の合唱」ということで、4時間以上にわたるコンサートでした。
又、演奏にはピアノ伴奏もあるのですが、とても中学生には思えないほどの上手さで、しかも各クラスには、この程度弾ける子が何名かいるそうです。(驚き!)ちなみに、この合唱祭はのちにCD化されて、全生徒に配られるそうです。
 この学校の伝統でもある合唱は、校歌もハーモニーで歌われ、入学式で聞いた時は驚きと胸にジーンときました。事あるごとに、みんなで合唱をしているそうで、一人一人の個性を生かしながら、連帯感が育まれていると感じました。
 2日間、卒業に関する行事に出席することができ、どちらも感激、感動しました。
やはり、時々、心に刺激を与えることが大切です。感動するということは、心の栄養であり癒しです。テレビや映画でも感動はありますが、同じ空気の中での感動は、また特別ですね。

 3月は、「暑さ寒さも彼岸まで」とお彼岸を迎えます。お彼岸については、このHPの「質問Q&A」にて、詳しく書いてありますので、ご覧頂くとして、仏教に限らず、どんな宗教でも、様々な方法や手段を変え、「こうして生きなさい」「こうすれば幸せになる」「こうすれば楽になる」と教えてきたのですが、しかし、綿々と受け継がれてきた、その「教え」が、時代や生きる人々の価値観に合っていないと単なる「教え」で終わってしまい、何の役にも立っていないことになります。
 それぞれの宗旨、宗派には、その裏づけとなる教学というものがあり、その教えによって支えられていますが、その教学用語が実に難しく厄介なのです。(そのくらい奥が深いのだ。といわれそうですが)
又、反面、教学用語ばかり並べてみると、なんだか分かったような、悟ったように思えてしまう。でも、実際は、まったく意味不明ということが実際のところではないでしょうか。(これが今日の宗教の正体なのかもしれません。)
 難しいことを分かりやすく話すことは、余程、理解していないと話せない。丁度、通訳の人が言葉の意味を理解していないと、本来の意味が通じないのと同じです。
 お彼岸というのも、表現を変えれば、幸せになるためには、祈りも大切だけど、もっと智慧(知恵・知識)の力をつけよう。そうすれば、何が正しく何が誤りか、みんなが理解できたら、世の中は平和になるよね。だから、そういう努力をいつも心がけよう、ということだと思います。
 難しい仏教用語で言われても、初めからヤル気失くしてしまいますよね。それに、ナンデモ祈ればOK!というのは、ちょっと違うのでは・・・・?

11,〔平成16年1月27日更新〕
 1月25日、私のお寺で「平成16年開運節分会」が開催されました。当日は、お天気にも恵まれ多くの方にご参詣頂き、それぞれ厄除祈願や開運のご祈祷を受けて頂き、「豆まき」「福引」と楽しんでいかれました。私は、この節分祭(来年から祭とします)は、檀信徒以外の方にも、広く呼びかけて多くの方に仏縁を持って頂く機会と考えています。ほとんどの寺院は、檀家さんとの行事が中心ですが、本来は、布教(教えを広めていく)していくことが大前提です。少しでもご縁が結ばれればとの想いで、これからも行事を行ってまいります。

 1月12日から19日まで、ニュージーランドの高校生のホストファミリーを引き受けることになり、初めての経験でしたが、いろいろと勉強になることがありました。何故、受け入れることになったのかは、この独り言〔2、平成15年4月26日更新分〕をごらん頂くと、その関係がご理解頂けると思いますが、子供が通う学校の国際交流の一環ということで、教師2名生徒7名が、真冬の日本を訪れたということです。
 生活については、さほど問題はありませんが、やはり言葉には多少、苦労しました。我々も怪しい英語ですが、彼も随分と訛っている英語(しっかりと英語が話せる人曰く、英語にも訛があります。ほとんど通じない英語もあるとのこと)のようで、例えば、我々はday(ディ)と発音しますが、彼は(彼らは)ダイと発音しますので、曜日がサンダイ、マンダイ、今日がツダイとなりますから、同じように、他の言葉も微妙に習った発音と違うため、初めの頃は、子供たちも、ぜんぜん分からないようでした。しかし、互いに理解し合おうという思いで、お別れが近い頃には、楽しく会話ができるようになりました。

 自衛隊は、今もどんどんとイラクへ向けて飛び立っています。これからも派兵されるようです。愛知県の小牧基地では、その都度、反対派、賛成派の集会が繰り広げられているようですが、子供が「今年は、日露戦争から百年目、日清戦争はさらにそれより10年前」と何気なく言ったのが気になりました。
 親が我が子を虐待の末、殺すというのは、今や連日のように報道されています。その経過が新聞に書かれていますが、読むたびに「なんと辛かったことだろう」と悲しくなります。この世に生まれ、初めに唯一信じることができたのが親です。おぎゃーと生まれて、口にするのは母親の母乳です。それは、生きるために与えられ、信じて疑わないものであります。しかし、その親(父親も含め)に裏切られ、見放されたら、誰を信じて生きていけばいいのでしょうか。信じた親に食べ物を与えられず、意味なく叩かれ、タバコの火を押し付けられ、水につけられ、寒さ、熱さに責められ、それは地獄絵図そのままの情景です。
こういうことは昔からあったかもしれません。それを行う親にも様々な原因はあるのでしょうが、それをこうした形で知る、今の私たちにも、何かを知らねばならない、学ばなければならないことがあるのではないでしょうか。人々の価値観を変えなければならない時なのです。

今月から、このHPのタイトルが「法筵寺&外氣功療法」と変わりました。私自身の生き方の中で、やはり、宗教者として外氣功師として、どちらも切り離せません。そして、ご覧になられる方にも最初から、そういうスタンスで行っていますとご理解して頂く方が早いと思いそうしました。
もちろん、外氣功療法もまだまだ鍛錬中であります。又、宗教者といえども修行中であります。すべてが、人々を通じて完成度のより高いものに育て上げられて(経験を積むことによって)いきます。せっかく生まれてきたのですから、何事も経験。そして勉強です。

10,〔平成16年1月1日更新〕
新年明けましておめでとうございます。
平成16年新春を迎え、謹んでお祝い申し上げ、本年も皆様のご多幸をお祈り申し上げます。

 昨年、12月の初め、ブータン国のミナク・リンポチェ師(現ブータン国立図書館館長)が来寺されました。今回は突然の来寺でしたが、8、9年前に一度、来寺され泊まられたこともありました。先月、ご紹介したサイパン・テニアン島の「太平洋戦没者慰霊平和塔」の法要にも、ご臨席された経緯があり、今回は久々のことで歓迎申し上げました。「リンポチェ」という方については、多分、私のようなものが応対できるような方ではないと思いますが、しかし、とても大らかで、心安らかで、しかも周囲にとても気配りをされる方であり、私の家内は大のファン(表現が適切ではありません。申し訳ごさいません。)であります。再び、お会い出来たことに感謝感激でした。

 平成15年の大晦日は、恒例のNHK歌番組がありましたが、その裏番組といいますか、気になるのは、ほとんど戦いものでした。スポーツと言ってしまえばそれだけかもしれませんが、それにしても、何故そんなに戦いを好むのでしょうか?そんな影響ではないと思いたいのですが、師走の繁華街では、若者の暴力が目立ちました。国民は「反戦」と叫び、アンケートでは、ほとんどの人が反対していたはずの自衛隊はイラクへ出発しました。
 しかし、現実は、暖かい部屋で、こたつで美味しいものを食べながら、飲みながら戦いを笑顔で見ているという姿ではなかたのでしょうか。これが日本の現状であり、日本の意識でしょう。日本の将来は果たして・・・・・想像にお任せします。


 『休みなく働き続ける肉体に ありがとうと愛ある言葉』「毎日無意識のうちに使っている肉体は年と共に疲れてきます。他人に”お疲れさま”の言葉をかけるように、自分の肉体にも”ありがとう”の感謝の言葉をかけたいです。子どもさんの痛いところに手当てするお母さんの手は、肉体と心に愛を伝えるのでしょう。病気の方にも愛をこめて手当てしてあげたいです。」(「うららな日」峰しいか著より)
 先月、ご紹介をした「うららな日・峰しいか著」がいよいよ出版されました。その中の一節です。全編を通じて著者の人柄や、やさしさが伝わってきます。ぜひ、お読み頂ければと思います。

 1月の最終日曜日に、毎年恒例となりました「豆まき」節分の行事が行われます。
厄払い、お願い事、開運を願う方、豆をまきにお越しください。
どなたでも参加できます。
では、皆さん今年も良い年でありますよう、お互いに精進しましょう。


9,〔平成15年11月25日更新〕
 
衆議院選挙が終わり、一時は二大政党制と騒がれましたが、投票率が全く上がらず、結局第2次小泉内閣で決まりました。投票に行かない人には、様々な理由や都合があるのでしょうが、行ってもあまり変わらないから、政治なんて・・・という方も多いのではないでしょうか。正直、私も若い頃はそう思っていました。しかし、反対勢力を阻止するには、応援する側に投票しなくてはなりません。また、自分の意見として一票を投じないことには、意思は伝わりません。どんな世界でも同じでしょうが、参加しなくて文句は言えません。まずは、どんなことでも意見があるのなら関わってから文句や注文を言うべきです。

 中近東では、爆弾テロが各地で繰り返され、多くの民間人も巻き添えになっています。日本もイラクへ自衛隊を派遣すると言っていますが、もし上陸した時には、テロを仕掛けるというニュースも伝えられています。それこそ政治判断で、今後の成り行きが決まっていくのですが、とても危険な状況に進んでいることだけは確実です。人間の想いが悪化してきたり、無関心でいると、今度は地震や様々な天災が起きてきます。一段と危険度が上がったのではないかと思います。

 久しぶりに、サイパンへ行ってきました。サイパンといっても、隣接するテニアン島が目的です。このテニアン島は、第2次世界大戦時、広島と長崎に原爆が投下されました、その原爆を積み込んだ「B29エノラ・ゲイ」が飛び立った島として有名です。又、サイパンと同じく多くの民間人軍人が戦い玉砕した島でもあります。
 7年前の平成8年11月、「悲惨な戦争によって犠牲になられた多くの方々のお蔭で今日の平和がある。そのことを忘れないために、慰霊を通じ安らかならんことと感謝の祈りを捧げたい」と発願された方がおられました。願いによって島内に「太平洋戦没者慰霊平和塔」が建立され、日本より僧侶、一般の参加者約320名の皆さんと共に、慰霊法要と世界平和祈願が行われました。
(詳しい経緯は省略します)
 それ以降、毎年のように、個々に参詣し法要が営まれてきましたが、ここ数年、諸般の事情で現地には赴いていませんでした。今回、当時、法要に関わっておられた人たちが、さらに詳しく現地の調査を行いたいとの願いで参詣することになりました。

 私自身も、このような慰霊法要を通じ、僧侶として、又、一人の人間として様々なことを経験させて頂けます。
特に戦争によって玉砕された方の中には、生きて恥をさらすくらいなら自害をする。死ぬのはいやだと泣き叫ぶ子供を道ずれに、崖から飛び込んだ母親もいたそうです。いかなる時でも「死」は辛いものです。同じように生を受けながら無念の死は悲しいものです。そして、現代でもまた、同じように悲惨な死を迎える人も大勢います。
 しかし、どのような亡くなられ方をされたとしても、実は、魂は、あらかじめ死・肉体の滅ぶことは知っています。ただ、おぎゃーと生まれた、その時から育んできた頭脳の方は、なかなかそういうことを理解できないのです。魂も精神も身体も、本当は三位一体で自分自身なのですが、魂の存在に気づいていないのです。ほとんどの人が気づかないままでいます。
でも、死ぬとそれが分かるのです。肉体が滅びても、何で自分が存在しているのかと・・・。同時に意識も残っていますので、その意識と魂に問いかけることによって、慰霊や供養ということも意味があるのです。
 たしかに「死」は誰でも考えます。どんな人にも平等にやってきますが、考えたくありません。でも、死というものは想像しているほど恐ろしいものではないということを付け加えておきましょう。人は考えます「いかに死を迎えるのか」「いかに死んでいくのか」「死んだらどうなるのか」本当は魂は知っているのに簡単には教えてくれません。それは、簡単に分かると努力をしなくなるからではないでしょうか。だったら「いかに日々を楽しく生きるか」を考え続けた方が、実は上手に死ねるということでもあります。『上手な死に方』ではなく『楽しく生きる』ことを考えましょう。死ぬ瞬間まで人として燃え尽きたら本望ではないでしょうか。

 これからも、テニアン島の慰霊法要が計画されると思います。もし、行くことがありましたら心を込めて慰霊申し上げましょう。

8,〔平成15年10月25日更新〕
いよいよ阪神とダイエーの日本シリーズが始まりました。星野監督は今季限りで監督を退くそうですが、一つには肉体的なこともあるようです。やはり肉体的にも精神的にも、私達が想像する以上にストレスが溜まるのでしょう。病気になる原因の多くはストレスです。生活の環境が変われば病気も変わると思います。
 毎日の生活の中でも、いかにストレスを発散させるか、溜め込まないかです。しかし、ストレスの原因が何であるのかが気がつかないこともあります。意外と単調なリズムや些細な事でも積み重なると原因となります。時には、リズムを変えてみたり、新たな事に挑戦してみて下さい。

 療法を受けられた方から、「仕事にも復帰し2ヶ月が過ぎようとしていますが、不思議なくらいあんなに痛かった頭の痛さや重さも無くなり毎日気持ち良く送っています。」というメールを頂きました。ホームページの掲示板にも「よく眠れるようになった」と書き込みをされた方もおられます。又、何度も遠い所(車で片道6時間かかるそうです)からお越しになる方もおられます。私にとっては、こうしたお便りや言葉、お越し頂けるのが最大の喜びであり励みにもなります。
 外氣功と言っても、まだ多くの方はご存じありません。さらには目に見えない療法ですから、「本当に良くなるの?」という方もいます。初めから「そんなものは・・・」と笑う方もいます。しかし、普通に抵抗なく理解されます方や、ごく自然に(本能的に)受け入れることができるという方も大勢おられます。もちろん、どちらが良くてどちらが悪いということではありません。ただ、療法に来られる方や、質問される方には、最初から「信じなさい」とは言いません。それより「良くなりたいと思って下さい。」と言います。「私は神仏なんて信じません。」という方に「心配いりません。必要な時にあなたは信じるようになります。」と同じ事です。
 
 人間には欲望がたくさんあります。次から次へと色んな事を考えます。良いことも、そうでない事も、でも、あるから生きることができます。
煩悩(ぼんのう)ともいいますが、字の通り、わずらわしさや悩みが次から次へと出てきます。これも生きている以上尽きません。しかし、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)ということもあり、大きな意味では、同じ悩みや迷いでも、考え方や立場が変われば、そのまま即役に立つこともあります。個人的に楽をしようと思って発明したことが世の中の役に立つことは多々あります。もちろん、その反対もあるでしょう。
 しかし、大切なことは、いつも心が燃えていることです。情熱ともいいます。何か目標に向かって燃えている人は、たしかに欲望も多いでしょう。煩悩も多いかもしれません。でも、その力で達成されます。
 肝心なことは、春から夏にかけて草木が伸びるように、情熱を燃やすと、欲望という雑草も同じように伸びてきます。その雑草だけ早いうちに摘み取ればいいのです。条件がよければ良いほど雑草も生えてきます。何度も摘み取ればいいのです。そうすれば、草木はやがて育ち立派な花や実となります。世の中で成功する人には、それだけのリスクがあるのだと思います。雑草との戦いですが、それは自分自身との戦いでもあります。
何が雑草で、何が本物なのか。見極めるのは難しいかもしれませんが、時々起きるトラブルや障害などは、立ち止まって見回す時なのかもしれません。いずれにせよ、何もぜす冬眠状態では事は起こりません。
 季節は晩秋ですが、 あなたは今、夏ですか。それとも冬でしょうか。

7,〔平成15年9月22日更新〕
 
暑さ寒さも彼岸までと、台風15号と共に暑さはなくなり、とても過ごしやすい今日この頃となりました。
自民党の総裁選挙で小泉さんが再選され、新たな組閣では政治の世界では若手と呼ばれる人たちが入閣しました。時代の流れを変えていく、というのは人物が変わらなければ変わりません。同じ人が考え方を変えようと思っても限界があります。
組織を変えようと思ったら牽引者を変えた方が早いでしょう。

 さて、今回もHPが変わりました。どんどんと進化(?)していきます。でも、これもご覧になっておられる方々の一言で変えることができるのです。なんと言ってもHPを作ることは発展途上の段階ですから、こうした方がいいよと云われれば、すぐに実行してしまうという訳です。それから、当初からの念願でありました『法筵寺』(お寺の案内と私の想い)なるものも出来ましたので付け加えました。本来は、外氣功をPRするものですが、私は一人の人間ですから、使い分けるのではなく、自分の持てる力を全て発揮させて、より多くの方に幸せになって頂けるよう努力するものです。
 さらに、今月の中旬にBフレッツなるものに変更しました。これも自然の流れでなったようなもので、導入検討時には、全く何のことかさえ理解できませんでしたが、結果的には家中が便利になりました。通信速度が早いというのは実感です。このサイトを転送するのに、64Kで6分強、9600は41分かかると表示されていたのが実際には10秒足らずでした。そんなことは当たり前だよ言われそうですが、私にとっては驚きでした。本当はもっといろいろと凄いのでしょうね。

 夏休み最後に、南紀白浜方面へ行きました。その帰りに、御坊市の道成寺(安珍と清姫で有名なお寺)へ初めて行くことができました。そこでは、多くの参詣者が来られるのでしょう「宝物館」があり、仏像や、能・歌舞伎関連などの展示がされていました。丁度、その時、お坊さん(ご住職ではないと思いますが、そうでしたらスミマセン)による安珍清姫とお寺の説明が聞けました。その中で『妻宝極楽・さいほうごくらく』ということを話されていました。多分、西方浄土(極楽)のアレンジだと思うのですが、しかし、上手いことを言うなと思いました。(普段、西方浄土という観念がないものですから)「主婦は家庭の柱であり、妻君を家の宝と心して親愛し我が妻こそ日本一と大切にしなさい、そうすれば家門は繁栄する。宝は西方の彼方ではなく家庭にある」という意味だそうです。その通りですね。

 
例えば子供が病気になった時、母親がどれだけ我が子に対し、「大丈夫だからね」「安心してね」という想いを持っているかどうかで回復は全く異なります。お母さんがこの子はもうだめと思ってしまったら、その時点で救いは止まってしまいます。一番大切な重要なお母さんから見放された子は、誰が救ってあげるのでしょうか。肉体的なことはお医者さんかもしれませんが、「絶対に良くなる」という精神面・心・気の部分は母親です。これらについての詳しいことは、多くの本に書かれていますのでお読み頂ければと思います。
 今回生まれてきた縁として、父、母、兄弟、夫婦と家族となった訳です。偶然ではありませんので、家族の問題は、家族で協力して、それぞれの出来る担当があるはずです、他人事と言わず解決していきましょう。そして解決したら、皆でその都度、感謝して喜びましょう。


6,〔平成15年8月26日更新〕
 やっと最近になって夏らしくなりました。お盆の頃は涼しくて、毎年、汗をダラダラと流しながらお檀家さんを回っていたのが懐かしいくらいでした。一方、フランスでは猛暑で、なんと一万人もの、しかも8割は高齢者の方だそうですが、亡くなられたとニュースで聞きました。若い頃、インドへ一人旅をしたことがありましたが(いずれ、お話します)丁度5月〜8月で夏だったんですが、毎日のように熱波で亡くなる人がいました。でも、フランスのようではありませんでした。     

 
さて、何度もこのHPに訪問された方は、突然HPが全面変わっていて驚かれたと思いますが、なぜ変わったのか?いや、私も変えるつもりもありませんでした。今月更新予定だった「独り言」も書き終わっていたのですが・・・・。HPビルダーで遊んでいましたら、元に戻らなくなって、ついにはHPをひらけばピンクだけ、それ以外は登場してくれなくなりました。一晩考えた末、こうなったら最初から始めよう、そして、どうせ作り変えるならページごとにリンクしていく方がかっこいいかなと挑戦しました。それが今回ご覧のHPです。
 以前、こんな話をしたことを思い出しました。エジソンが一生懸命研究し、ようやく発明品が完成した時、弟子の不注意で火事が発生して、研究小屋ごと全てなくなってしまったそうです。その時、「気にするな、又、作ればいいし、ついでにごみもなくなって、さっぱりした」とエジソンは言ったそうです。まさしく発想の転換です。いつまでもごだわらない、いい勉強にもなりました。HPの本をひたすら読みました

 
そんな訳で、仕事の合間をぬって2日間で完成しました。それもこのHPを見て下さる方が、患者さんとして待っているかもしれない・・・という思い込みもあってです。
  

 先回、「日常の五心」ということをお話しました。当たり前のことですが、これがなかなか出来ていないのではないでしょうか。私も夜、ついついそのまま寝てしまうことがありました。ある日、子供に「自分で貼っておいて、おやすみって言わないの変だよね」と指摘されました。その通りです。その後は、ちゃんと意識して「おやすみ」というようになりましたが、挨拶の慣行は途中から始めようとする時は、家族の誰かが意識して、そのことが大切だよと言わないと始めれません。もちろん、ずーと続けれているご家庭は、きっと円満な家庭なことと思いますので、そのままお続け下さい。



5,〔平成15年7月25日更新分〕
 当院のHPが、関係する機関のHPにも紹介されるようになり、リンクする所もできました。又、さまざまな検索(エンジン)にも、徐々に紹介されるようになってきました。ご覧頂いた方の中には、遠くからお越し頂く方もあり、益々頑張らなければと思う次第です。 
先日、名古屋のデザインセンタービル(ナディアパーク内)で開催されています「新・人体の不思議展」を観てきました。
展示されている人体のあらゆる臓器や全身像に至まで、全てが本物の人体からできているという、すごいものでした。
プラストミック標本として、特殊な加工がしてあるので、本物なのか作り物なのか見分けがつきません。しかし、あくまで本当に生きていた人間ということもあり、しかも、あらゆる角度から観る、研究するためにとカットされてあり、同じ人間として複雑な思いを致しました

もちろん献体された方があったからこそ出来ることですが、肉体の仕組みの素晴らしさに驚き、それを本当の人間で作ってしまうという、すごさに驚きました。霊性云々については別のこととして、8月末まで開催されていますので、ご希望の方はご覧頂いてはどうでしょうか。 
毎日のように、悲惨な事件や事故が起きています。この世だから当然なのかもしれませんが、それにしても事件を起こす低年齢化が益々進んでいます。何が原因で何が悪いのか、皆さんも色々と考えさせられたことと思います。小さな子供さんやお孫さんを持つ方にとっては他人事ではありません。さらに、これからの時代を生き抜いていくことの大変さを考えると、自分以上に悩みの原因になります。
いつの時代でも、悲惨な出来事は起きていたのでしょうが、これほどまでニュースは伝わりませんでしたし、情報もありませんでした。特に、知らなくても良いことまでも知ってしまう苦しさもあるのです。
 このような時代だからこそ、ただ口先だけで「平和が大切」とか「幸せを望みましょう」といっても行動がなければ、幸せや平和なんてきません。自分が行動してこそ、一人一人が自覚し実践してこそ、その時は訪れます。ついでに言えば「祈ってされいればいい」も本当の救いにはなりません。
 今月から、私のところ(寺)では、そんなことを願い、原点に戻って「日常の五心」(下記に説明)というものを再び配布し、実際に家庭でも実践して頂くようにしました。もちろん実行するかしないかは本人の自由です。単純なことかもしれませんが、今の世の中には、このことが欠けているのではないでしょうか。(精神のレベルアップ運動のようなものを目指しています。配布物は順次増えていきます)


4,〔平成15年6月24日更新〕
 本格的に、療法院をスタートさせ、又、HPを開設して3ヵ月がたちました。HPをご覧になり、メールを頂いたりお電話を頂いたりと、さらに、ご遠方からお越し頂いたりと、少しでも皆さんのお役に立てることが嬉しく思います。私の努力不足でしょうが、以前に比べ宗教(お寺)に救いを求めるくる方が減っています。自分の力の無さを他のせいにするのはいけないことですが、私の場合はそうです。
しかし、今、療法を通じて、痛みを和らげ、お話が出来る事で満足をしていてはいけないのでしょうが、ナントか頑張れることに感謝する今日です。
まだ6月なのに2回も台風がやってきました。この東海地方の近海では、北の海しか取れないような魚が取れたとニュースでやっていました。地震も各地でグラグラと続いています。地球からみれば、私達は地上に張り付いて生きているようなものですが、その割には随分、自然を都合勝手に破壊しています。自然界であっても意識はそれぞれにありますから、時には外科手術を行う時もあります。災害が起きるのは自然界の自浄作用ではないでしょうか。  

人生が「上向く生き方」について考えてみました。すでに、このことについては、過去、多くの人々が「こうすればいい」「こうあるべきだ」と述べられています。今更、私がどうこう言うものではないでしょうが、でも、こういうことは何度でも試み、そして自分が納得していくところに学びがあり進歩があるのでは、と勝手に思っています。
 ある本の中に、「無意識の生き方はやめなさい」という呼びかけがありました。これは、いかに私達が毎日、意識せずに生きているのかということです。小さい頃から、両親や環境によって育てられてきました。それ自身が悪いというのではありませんが、それが良い方向であれば、自然に人生も上向く条件が多くあるでしょうが、そうでない時はそれなりになります。例えば、方言があります。無論、方言が悪いのではありません。会話は自分の周りでは同じような発音、イントネーションです。ところが、一歩他の土地へ行ったら、ぜんぜん違う言葉になります。外国語になれば全く通じません。でも、それとて小さい頃から、無意識に当たり前と使ってきました。しかし、通じなければ、意識的に言葉を覚えるか、使い分けなくてはなりません。同様なことはたくさんあります。それだけ意識せずに今日まで生きてきたということです。人生にとっても、今、もうなんとかしたい!なんとかして!という時こそ、意識的に生きてみることです。
 まず、最も気高く、こうありたいという自分を考えることです。毎日その通り生きたらどうなるのかを想像してみることです。そして、そのような行動や言葉を言ったら、他人がどう思うかも想像してみることです。その自分と今の自分はどれだけ違うのかわかります。すると、今生きている自分は自分のヴィジョン通りではないことがわかります。であるならば、自分はこうありたいと意識的に変えようと思うことです。
 今の自分を変えたい。変えようと思ったら。意識的に生きてみる事です。これは朝起きてから寝るまで、今日一日、実行してみようと挑戦してみることです。難しいことではなく「今日一日、挨拶を元気よくしよう」とか「今日は怒らない」とか「人に優しい言葉をかけてみよう」など、たとえ怒ってしまっても、すぐに心で「ごめん」と訂正すればいいのです。こんなことでいいのと思いますが、意識的に生きることってすごいことです。
毎日が変わりはじめたら効果ありです。


3,〔平成15年5月27日更新〕
 お陰さまで、HPをご覧になられた方々より、メールやご相談が増えてまいりました。感謝申し上げます。このHPへたどりつくには、色々と検索された結果であると思います。殆ど「外氣功」で検索しますと、本院のHPが見つかります。本院からリンクしてご覧になる方が約2割前後でしょか。この膨大なる数のHPから見つけ出して頂き、そして実際にメールやお電話をして頂くということは、すごい確率であると思います。こうして、せっかく縁を結んで頂いたのですから、やはり、それ以上の責任と使命に燃えています。
そして、一人でも多くの方が幸せになって頂けることを一層願うものであります。

 新型肺炎SARSの影響は様々な所で出ています。私の娘の通っている学校でも、行事を開催する行き先が、例の台湾の医師が観光に訪れていた場所と同じでした。丁度、運悪く潜伏期間に当たり、結局中止となりました。身近にそういうことが起きると、やはり他人事ではないと実感させられました。

 アジサイの花が美しい季節となりました。ご承知の通り、紫陽花は土の影響で色とりどりに咲きます。私達も親やそのまた親によって代々、様々な考え方を教えられて、さらに、学校、周りの大人たち、環境からも大きな影響を受け今日があります。
誰しも小さい頃は絶対、親や先生は正しいと信じていたと思います。こうした中で自分の価値観は作られてきました。
 しかし、時には立ち止まって点検が必要な時があります。もちろん、今のままの状況(価値観)で幸せ、最高!と思う方は、そのまま進めば結構です。
でも、「何か違う」「物足りない」「どこか変だ」「何でこんな不幸に」「もう耐えられない」「我慢の限界だ」などと思う方は、価値観の変更を求められています。自分を形成している価値観は様々なパーツから出来上がっていますから、すべてを変えなさいというのではなく、車の部品を交換するのと同じで、古いと思う価値観、不要になった価値観、これは苦しい辛いと思える価値観(考え方・思い)を、積極的に新たな部品(考え方)に交換することです。
息苦しくなってきたら、素直に今の考え方をやめようと努力し、新たなる考え方を取り入れればいいのです。
簡単に出来ることもあるでしょうが、一大決心のいる場合もあります。勇気を要求されますが、現状でもがき苦しむなら進むべきです。いずれ捨てなければならないことは早いほうが楽です。今だと思ったら思いきって進んでみましょう。
   

 2,〔平成15年4月26日更新〕
 ホームページを開設して、1ヵ月がたちました。ご覧になられた方の数はアクセスカウントで一目瞭然です。その数が多いのか少ないのかは分かりませんが、でもお便りも頂けました。正直うれしいですね!
マッキントシュをお使いの方には「祥」の字が化け文字になっていると、何人かの方に指摘されました。ちょっと格好をつけて、示すへんに羊という字を使ったのですが、格好をつけてはダメと言う事でしょう。元に戻しました。
これからもどんどんと改善進化していこうと思いますので、何なりとご指摘下さい。

 4月16日〜22日まで、子供の学校の関係で、ニュージーランドへ行ってきました。季節は日本と反対の秋です。話には聞いていましたが、自然が残っていてどの草原にも羊と牛の数の多いこと、人口より多いそうですが、実際に見て納得です。
今回の旅行に対し、家族や皆さんからもイイネと言われ続けました。ところが、現実はそうではありません。実は、この歳になってホームスティを経験することとなったのです。ホストファミリーの皆さんには、とても親切にして頂いたのですが、肝心の言葉が通じません。今更になって英語がはなせない、少ししか理解できない、自分の意思が思うように通じない。このことは、また別の意味で辛いことでした。(だからと言って、英語の勉強を始めた・・・そんなことはありませんが)でも、子供たちや、これから人たちは大いに外国語をマスターして欲しいと思います。

 イラク戦争も終わったような終わらないような状況が続いています。一時は世界中で反戦の叫びが広がりました。もちろん戦争は反対すべきですが、戦争は始まってしまいました。
 開戦当時、アメリカ、イラクの大統領は「神のご加護がある」「神が勝たせてくれる」と、それぞれスピーチしていました。たしかに戦う戦士にとっては盛り上り安心するかもしれませんが、果たして、本当の『神』は戦いを応援するのでしょうか、手を貸すのでしょうか、いや手出しはしないはずです。
 なぜなら人が人を殺すことに手出しをすれば、神自身を殺すことになるからです。もちろん、この世においては殺人や悲惨な出来事はありますが、それも冷静に考えてみれば、全て、人間の想い、身勝手な考えから行われるものであり、戦争だって人間のエゴから生まれたものです。それを勝手に神の・・・・と言っているだけではないでしょうか。だったら、今すぐにでもやめる事だって出来るはずです。少し考え方を変えればいいのですから、でも何度も同じことを繰り返しているんですが・・・・。
 当然ながら、神は人殺しに手を貸すことはあり得ません。もし、そうであれば、それは神の名を語るサタンではないでしょうか。この世には、人間の都合で作り上げられた怪しい神様ってたくさんいますよね。
ちょっと難しい話になってしまいましたが、これも私の仕事・使命の一部分ですので・・・・。


1,〔平成15年3月24日新規〕
 はじめて、ホームページをみよう見真似で作ってみました。
もちろん、必要に迫られたので出来上がったのですが、市販のホームビルダーを購入してから、実際にこうなるまでは、1年半たちました。ですから、再び本屋で参考書を購入して時には、すでにバージョンアップしていました。
 しかし、今更、買い換えるのはと思い、ナントか出来上がったのでが、ご覧のHPです。
これからも、皆さんにアドバイス頂き、レベルアップを図って行きたいと思いますので、何でもお気軽に言って頂けば思います。

 さて、こうして独り言といえども、何か書けることは楽しいです。
平成13年秋に、縁ありまして、外氣功療法院の千葉先生に教えを受けることとなりました。名古屋から、法務(お寺の仕事)を調整しながら、療法院へ通いました。念願叶い、同年暮れに「許状」を頂きました。しかし、それから一年間は自らの向上のために、自分の知っている方か、本院のHPを見たという方しか、実際には療法を行っていませんでした。
 お寺の住職をしていますから檀信徒の方も大勢おられます。今までにも、現在もそうですが、人生相談やご祈祷など、いつも『生きている時に幸せにならなければ、どうして死んでから幸せになれるの?』という心で、お引き受け致してまいりましたが、しかし、今度は、突然、「住職が外氣功師になって、病気まで癒してくれるらしいよ」と言われても、すぐに信じろという方が所詮無理です。亡くなった方のことは任せても、生きている人の病気までは・・・・・となります。最もすごかったのは、一室を療法院としているのですが、療法用のベットがおいてありましたら、ある檀家さんは「住職が、とうとう病気になって、そのために誰かが来て、治してくれているんだ」と思い込んでいた人もいました。(一応、その部屋には”外氣功療法 名古屋院 院主 鈴木海祥”と掲げてあり説明文も貼ってはあるのですが・・・・)
 そんな訳で、こうなった以上、そして私自身の心の決意も決まりましたので、本年より、檀信徒の方にも、そして、これからこのHPをご覧なって頂く方々にお知らせしていこうと思います。
病気だから、このHPに出会えた。決して病気だから不幸ではありません。なぜなら、病気の人は学ぶべきことがあるからです。