言いたい放題!気まぐれ日記 その7(平成24年1月9日〜 )
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2015年3月6日(金)
 還暦を迎えて 
気まぐれ日記は、本当に気まぐれですが、以前書いたのは、丁度2年前、しかも私の誕生日です。そして、今回も、誕生日となり還暦を迎えました。少し書いてみました。

 60回目の誕生を迎え、皆様よりたくさんのお祝いメッセージを頂き感激と感謝御礼申し上げます。

いわゆる還暦という通過点ですね。若い頃は、還暦〜と聞くだけで、ナントおじさん!なんだうと思っていましたが、実際到達してみれば、いくら若いつもりでも、やっぱり「おじさん」かもしれません(^_^;)

だらだらと長くなるかもしれませんが、過去の一部を振り返ってみました。

1955年3月6日、長男として、父42歳、母36歳の時、誕生しました。

1歳まで、山梨県早川町高住に住んでいたようですが、どうも呼吸困難症状を引き起こすようで、昭和31年、叔父が戦前住んでいた現在地に移り、両親が、日蓮宗布教所(金曜会結社)を設立して布教活動を始めました。

昭和34年9月、伊勢湾台風が襲ったのですが、その年の春、2階建てにしたことで、近所の人たちも救われたようです。

小・中学生までは地元でしたが、高校から、日蓮宗総本山身延山久遠寺山内の宿坊:武井坊さんに6年間お世話になり、高校、短期大学(3年制)へ通いました。この間に、父を師匠として、日蓮宗僧侶となるべき、信行道場を20才で終えました。

その後、東京にある立正大学3年生へ編入、この時は、日蓮大聖人ご入滅の霊場、大坊本行寺さんに1年半お世話になりました。
何故、1年半かというと、この頃から、父が入退院を繰り返すようになっていて、しかも母も看病疲れで体調を崩すようになり、卒業までの半年間は、名古屋から東京の大学へ通学していました。でも、週に1〜2時間しか授業がなく、あまり行かなくても良かったからです。

昭和53年3月、立正大学を卒業と同時に母が急逝し、病身の父と妹3人暮らしとなりました。しかし、この頃には信者(寺ではないので、檀家は0)は数名に激減していました。

卒業後は、近隣のお寺の手伝いをしながら、生活を支えていましたが、昭和54年、母壱周忌の時、母が生前中に救済した東京在住の篤信者の方から、高額な寄進を受けることとなったのです。

母は、いわゆる霊媒師で、亡き方の霊を、自分の肉体に寄せることができ、その力で多くの方を救ってきました。
母の霊力は、兄の戦死をきっかけに思うことがあり、小学校の教師をやめ、身延七面山麓の白糸滝で修行した結果得た霊力です。
同じ頃、父も1度出征後、2度目の徴兵前に両目を事故で失明、姉を頼りに、身延七面山麓の白糸滝で修行し奇跡の回復後、以来、七面山に16年間奉公の後、40歳で出家しました。母は9年間の在住でしたが、縁ありて結婚したということです。

さて当然、宗教法人でありませんから寄付は受けられません。父が健在な内にと、金曜会結社から寺号公称し、宗教法人法筵寺を設立することなりました。初代住職は父でしたが、宗教法人設立時は、すでに遷化されたので私の登録となりました。

昭和54年に寄付を受け、すぐさま、本堂等の設計建築となるのですが、実は、私が小さい頃から、この地に3階建ての本堂を建てるだと、いつも母に夢のような話をしていました。もちろん、何の裏付けも保障もありません。私自身さえお坊さんになることすら不明でした。

しかし、そのことがあったので、すぐにイメージ通り進み、3月に寄付の話、8月には住居の取り壊し、9月には地鎮祭。翌、昭和55年3月には鉄筋3階の仮本堂で、母の3回忌を営むことができました。

今思えば近所の人はびっくりです。当時の取り壊しは、大型重機で1日で壊してしまうのですから、朝と夕方では風景が全く変わり、しかも、数ヵ月後には、あのボロボロだった建物が、鉄筋3階建ての真っ白なお寺が出来たのですから。

5月に、完成し移転するのですが、この間に、妹は縁あって2月に東京在住の方に嫁ぎました。
父は、この間も入退院を繰り返していましたが、8月に逝去され、結局、私一人になりました。

父(師匠)の葬儀の時、市内の寺院の方は、まさか数ヶ月で、あのボロ屋だった結社が、寺になり、しかも鉄筋3階建ての本堂が建っているとは、皮肉なことに葬儀式に披露することとなったのです。

父の逝去、本堂の完成。しかし、以前より日蓮宗大荒行入行を志していたので、この時期を逃してはと、又、両親の思いもあると決意し、9月末に父(師匠)の四十九日忌、午後から入寺式と、数名の信者、親戚、縁ある寺院の方にて行い、住職として、11月1日より、翌昭和56年2月10日まで、出来たばかりのお寺の管理を親類に託し大荒行初行に入行しました。

無事、100日間の修行を終えて帰山(帰ること)するのですが、ガランとした本堂に人がいないのではと、近隣のお寺の檀家さんが招集され参詣されて華を添えて頂きました。

建立当時は、檀家0信徒数名からのスタートですから、正式な書類上には会ったこともない方が数名いました。なにしろ、新たに宗教法人を設立するには、責任役員6名、その数の倍以上の総代(13名)と監事(2名)合計15名が必要です。どんな頑張ってもいません。当然ながら、友達の友達となりました。今思えば考えられないことですが、現実が先行しているので仕方ありませんでした。

一応、荒行を終えたものの、すぐさま人様が救えるものではありません。
それに26歳で独身。お寺の住職。出来たばかりの3階のお寺もある。となれば、お嫁さんということになります。

いろんな方が、お話を持って来て下さいました。それこそ、次から次へと決してモテる訳ではありませんが、食事も家事も1人でする訳ですから、心配されるのは当然です。又、お寺としての運営も満足にいきません。
ずるずるしている内に、どうしてよいのか分からなくなってきました。
形は出来たのに、僧侶としての熱意、思いがないということです。

そうこうしている内に、ついに行き詰まりを感じて、1人インドにて見つめ直すということになったのです。
何故、インドなのかですが、その頃は、生活環境を変えたいと正直思いました。檀家さんも信者さんもほとんどいない寺。
仕事も無い。しかも住職とは名ばかりで、僧侶としての自信もない。最悪です。

又、インドは、20才の時、両親や当時の信者を含め30名位で、インド仏蹟地を巡拝したことがあったのです。その時、ナグプールという町で仏教を弘めている日本人僧侶(佐々井師)に出会いました。その僧侶の元へいつかは行ったみたいとう思いもありました。

昭和57年5月〜7月の2ヶ月間、渡印することとなりました。ところがこの時期は真夏、連日40℃は当たり前で。しかも民家で過ごすという、かなり過酷な環境でした。言葉は通じず、ひたすら佐々井師について民衆の中での布教を目の当たりにする日々でした。何を言っているのは正直分かりませんが、その熱意と思いは感じていました。

途中で、日蓮宗僧侶(佐々木師)と出会い、仏蹟地巡礼の旅に出掛けるのことになり、各仏蹟地で5〜7日間滞在しました。
ある時は民家、ある時は安宿、エアコンなどありません。また自炊するのですが、季節柄、多くの食料は望めず、暑さと下痢の繰り返しで体重が53sまで減り、あばら骨が見えるようになりました。頭髪も伸ばしたままで、まさしく修行でした。

霊鷲山(ラジギール:法華経の説かれた聖地)に1週間ほど滞在し、毎日村から2時間弱歩いて登詣していました。
そんなある日、将来を思うた時「日本に帰ったら、いかなることと言えども最初に紹介された人と結婚すべき」と誓いました。
そして帰国した9月、知人の寺院の方が「おまえに紹介したい女性がいる」それが今の家内で、当時、19歳の短大生だったのです。

そんな訳で、昭和57年11月結納、翌1月成人式。3月2日結婚式。新婚旅行はネパール。帰国後、卒業式。
実は、家内の父親も昭和53年に44歳で逝去されていて、紹介されたのはその菩提寺でした。
やがて、昭和59年長女、昭和60年長男、平成元年次女誕生。今に至ります。

人生の大きな出来事を23歳から28歳までの5年間。両親の死、結婚、寺号公称、お寺の建立など。
その後、さらに、色々と続きますが、これからも続くでしょう。
ともあれ、ありがとうございました。

『いつの日か、あなたは人々の「思い出」になる。「良き思い出」になるために精一杯生きよう』
〔写真は、唯一残っていたもの。1955年〕
 2013年3月6日(水)
 帰山奉告式
 法筵寺修徒 鈴木海頌(かいじゅ)は、昨秋11月1日より、本年2月10日に至る寒壱百日間、日蓮宗大荒行堂に入行し、無事成満(じょうまん)致しました。過去の日記には、入行のことまで書きましたが、成満するまでは日記も更新できずに至りました。
さて、成満すると、修行僧は、それぞれのお寺に帰り、自らが百日間無事に修行を終えた奉告と、祈祷本尊鬼子母尊神様、有縁の寺院、檀信徒、友人、寺族に対しての感謝を込めて帰山奉告式を行います。入行前、入行中は、本人の無事を祈り修行を行っているかを心配するのですが、後半になると、成満を待つ側は帰山奉告式の準備が忙しくなります。
 帰山奉告式は、2月11日(月:休日)午後1時30分、帰山行列から始まりました。近隣にある銀行前から、玄題旗(お題目の旗)を先頭に、うちわ太鼓、鬼子母尊神様の尊像を携えた竹内路雄総代、允可証を小川和雄総代、許証を飯尾登代子総代が携え、その後ろに海頌、先輩行僧、さらに100名近い檀信徒、友人が行列をして、法筵寺へと歩きました。とても寒い中でしたので、皆様にはご足労をお掛けしました。
 引き続き、高架下の駐車場を特設の水行場として、7名の行僧が水行を行いましたが、初めて見る方も多く、皆さん驚きと修行の一端をご覧になられたと思います。行中は、この水行を早朝3時から、夜半11時の間、一日7回行います。
帰山奉告式は本堂にて行われ、60名余の寺院の方、120名余の檀信徒、友人の方が参集する中、海頌導師の元、始まりました。
法要は読経、相伝を受けてきた御祈祷と続き、法要後は来賓の山川宗務所長を、はじめ5名の来賓寺院のお祝いのご挨拶、竹内路雄総代の祝辞、最後に住職の謝辞、本人の謝辞と続きました。海頌本人の謝辞では、さまざまな修行中の思いが交錯する中、感極まり涙しかでず言葉が出ませんでした。それも致し方ないかと思いましたが後日、多くの寺院の方々には、「近年には無かった、とても素晴らしい帰山奉告式だった」と言われ安堵しました。
しかし、これからが本当の修法の行であります。



 2012年11月26日(月)
 「いのちをいただく」「いただきます」
いのちをいただく】   facebookのコラムから

「いただきます」って、日本ならではの言葉なんだそうです。
だから、この言葉を知らない外国の人は、
「いただきますって、何ですか?」
「それは、神に対する祈りですか?」と聞いてきます。

もしもですよ、みなさんが子どもたちに、「なんで食べる前に『いただきます』
って言わなきゃいけないの?」って聞かれたとしたら、どう答えますか?
たぶんですね、みなさんは、
「それはね、 命をいただく動植物、 食料を生産してくれた人、 そして調理してくれた人に感謝するためなんだよ」
って答えるんじゃないかな、と思うんですけど、子どもたちにその話をして、はたしてどれくらいの子どもたちが心から納得するでしょうか?
よく考えてみるとですよ、子どもたちはおそらく、似たようなことを何回も聞いているはずなんです。
でも、残念ながら、それが多くの子どもたちの心に響いていないのが現状ではないでしょうか?
それどころか、給食指導の時間にですよ、「ちゃんと、いただきますを言わんね!」
「ごちそうさまは?」「はい、合掌していない人が いるからやり直し!」
なんて、つい言ってしまうことって、ありますよね?

中学2年生の理科で、「動物の生活と種類」という単元がありまして、その中で動物と植物の違いについて学習します。
動物と植物の一番の違いは何か?
それはですね、「動物は、食べるために動かなければならない。
植物は、食べる必要がないので動かなくていい」です。
植物は動けない、じゃないんです。
動かなくていいんです。

なぜか?
生きていくための栄養を、自分の力で作り出すことができるからです。
私たち動物にはそれができません。
だから、どうしても他の生き物を「食べる」必要がある。
動物だろうが植物だろうが、どんな生き物であっても、自分の命の限り精いっぱい生き続けたい、
そう願って生きているんだと私は思います。
私たち動物は、そんな他の生き物の「いのち」を奪わなければ、一時も生きていくことができない、
悲しい宿命を背負った生き物なんです。

食を考えることは、命について考えることです。
このことを、どうやって子どもの心に響かせるのか、
そして、どうやって子どもの心に火を灯していくのか、
それが、きっとプロとしての教師の仕事なんだろうと思うんです。
私の心に深く残っているお話が二つありますので、ここでご紹介します。
一つは、九州大学大学院助教授の佐藤剛史先生が書いた、
「自炊男子〜
 『人生で大切なこと』が見つかる物語」 の中に出てくるお話です。

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「いただきます」「ごちそうさま」をなぜ言わなければならないか分かりますか?
「いただきます」の意味の一つは、「作ってくれた人の命をいただく」ということです。
命とは時間です。

ある人が80歳で亡くなったとしましょう。ということは、80年間という時間が、その人の命だということです。
今朝、みなさんのお母さんは、30分かけて朝ご飯を作りました。
今日の夕食、お母さんは、1時間かけて夕ご飯を作ります。
その朝ご飯にはお母さんの30分ぶんの命、夕ご飯には1時間分の命が込められているのです。
みなさんが生まれてから今日までの間、お母さん、お父さんは、自分の命の時間を使って、
みなさんを食べさせてきたのです。
そして、これから親元を離れるまで、ずっと、みなさんは、お母さん、お父さんの命の時間を食べていくわけです。
「いただきます」の意味の一つは、「作ってくれた人の命をいただく」ということです。
食べ物を粗末にすることは、作ってくれた人の命を粗末にすることです。
心を込めて、「いただきます」「ごちそうさま」を言いましょう。
食べ物を作ってくれた人に感謝の気持ちを忘れないようにしましょう。

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そしてもう一つは、内田産婦人科医院の内田美智子先生が書いた、「いのちをいただく」という絵本のもとになったお話です。
この絵本、クラスの子どもたちやご自分のお子さんにぜひ読み聞かせてあげてほしい、そんな願いを込めてご紹介しますね。

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坂本さんは、食肉加工センターに勤めています。
牛を殺して、お肉にする仕事です。

坂本さんは、この仕事がずっといやでした。
牛を殺す人がいなければ、牛の肉はだれも食べられません。
だから、大切な仕事だということは分かっています。
でも、殺される牛と目が合うたびに、仕事がいやになるのです。
「いつかやめよう、いつかやめよう」と思いながら仕事をしていました。
坂本さんの子どもは、小学3年生です。しのぶ君という男の子です。
ある日、小学校から授業参観のお知らせがありました。
これまでは、しのぶ君のお母さんが行っていたのですが、その日は用事があって、どうしても行けませんでした。
そこで、坂本さんが授業参観に行くことになりました。

いよいよ、参観日がやってきました。
「しのぶは、ちゃんと手を挙げて 発表できるやろうか?」
坂本さんは、期待と少しの心配を抱きながら、小学校の門をくぐりました。

授業参観は、社会科の「いろんな仕事」という授業でした。
先生が子どもたち一人一人に「お父さん、お母さんの 仕事を知っていますか?」
「どんな仕事ですか?」と尋ねていました。しのぶ君の番になりました。
坂本さんはしのぶ君に、自分の仕事についてあまり話したことがありませんでした。

何と答えるのだろうと不安に思っていると、しのぶ君は、小さい声で言いました。
「肉屋です。普通の肉屋です」
坂本さんは「そうかぁ」とつぶやきました。
坂本さんが家で新聞を読んでいると、しのぶ君が帰ってきました。
「お父さんが仕事ばせんと、 みんなが肉ば食べれんとやね」

何で急にそんなことを言い出すのだろうと坂本さんが不思議に思って聞き返すと、
しのぶ君は学校の帰り際に、担任の先生に呼び止められてこう言われたというのです。
「坂本、何でお父さんの仕事ば 普通の肉屋て言うたとや?」
「ばってん、カッコわるかもん。 一回、見たことがあるばってん、 血のいっぱいついてから
 カッコわるかもん…」
「坂本、 おまえのお父さんが仕事ばせんと、 先生も、坂本も、校長先生も、会社の社長さんも肉ば食べれんとぞ。 すごか仕事ぞ」
しのぶ君はそこまで一気にしゃべり、最後に、「お父さんの仕事はすごかとやね!」と言いました。
その言葉を聞いて、坂本さんはもう少し仕事を続けようかなと思いました。

ある日、一日の仕事を終えた坂本さんが事務所で休んでいると、一台のトラックが食肉加工センターの門をくぐってきました。荷台には、明日、殺される予定の牛が積まれていました。

坂本さんが「明日の牛ばいねぇ…」と思って見ていると、助手席から十歳くらいの女の子が飛び降りてきました。
そして、そのままトラックの荷台に上がっていきました。
坂本さんは「危なかねぇ…」と思って見ていましたが、しばらくたっても降りてこないので、心配になってトラックに近づいてみました。
すると、女の子が牛に話しかけている声が聞こえてきました。
「みいちゃん、ごめんねぇ。 みいちゃん、ごめんねぇ…」
「みいちゃんが肉にならんとお正月が来んて、じいちゃんの言わすけん、 みいちゃんば売らんと
 みんなが暮らせんけん。ごめんねぇ。 みいちゃん、ごめんねぇ…」
そう言いながら、一生懸命に牛のお腹をさすっていました。
坂本さんは「見なきゃよかった」と思いました。
トラックの運転席から女の子のおじいちゃんが降りてきて、坂本さんに頭を下げました。

「坂本さん、みいちゃんは、 この子と一緒に育ちました。だけん、 ずっとうちに置いとくつもりでした。
 ばってん、みいちゃんば売らんと、この子にお年玉も、クリスマスプレゼントも 買ってやれんとです。明日は、どうぞ、よろしくお願いします」
坂本さんは、「この仕事はやめよう。もうできん」と思いました。
そして思いついたのが、明日の仕事を休むことでした。

坂本さんは、家に帰り、みいちゃんと女の子のことをしのぶ君に話しました。
「お父さんは、 みいちゃんを殺すことは できんけん、 明日は仕事を休もうと思っとる…」
そう言うと、しのぶ君は「ふ〜ん…」と言ってしばらく黙った後、テレビに目を移しました。

その夜、いつものように坂本さんは、しのぶ君と一緒にお風呂に入りました。
しのぶ君は坂本さんの背中を流しながら言いました。
「お父さん、やっぱりお父さんが してやった方がよかよ。心の無か人がしたら、牛が苦しむけん。
 お父さんがしてやんなっせ」坂本さんは黙って聞いていましたが、それでも決心は変わりませんでした。

朝、坂本さんは、しのぶ君が小学校に出かけるのを待っていました。
「行ってくるけん!」元気な声と扉を開ける音がしました。
その直後、玄関がまた開いて
「お父さん、今日は行かなんよ! わかった?」としのぶ君が叫んでいます。
坂本さんは思わず、「おう、わかった」と答えてしまいました。
その声を聞くとしのぶ君は「行ってきまーす!」と走って学校に向かいました。

「あ〜あ、子どもと約束したけん、行かなねぇ」とお母さん。
坂本さんは、渋い顔をしながら、仕事へと出かけました。
会社に着いても気が重くてしかたがありませんでした。
少し早く着いたのでみいちゃんをそっと見に行きました。

牛舎に入ると、みいちゃんは、他の牛がするように角を下げて、坂本さんを威嚇するようなポーズをとりました。
坂本さんは迷いましたが、そっと手を出すと、最初は威嚇していたみいちゃんも、しだいに坂本さんの手をくんくんと嗅ぐようになりました。
坂本さんが、「みいちゃん、ごめんよう。みいちゃんが肉にならんと、みんなが困るけん。 ごめんよう…」と言うと、みいちゃんは、坂本さんに首をこすり付けてきました。

それから、坂本さんは、女の子がしていたようにお腹をさすりながら、
「みいちゃん、じっとしとけよ。動いたら急所をはずすけん、そしたら余計苦しかけん、じっとしとけよ。じっとしとけよ」と言い聞かせました。
牛を殺し解体する、その時が来ました。
坂本さんが、じっとしとけよ、みいちゃんじっとしとけよ」と言うと、みいちゃんは、ちょっとも動きませんでした。
その時、みいちゃんの大きな目から涙がこぼれ落ちてきました。
坂本さんは、牛が泣くのを初めて見ました。
そして、坂本さんが、ピストルのような道具を頭に当てると、みいちゃんは崩れるように倒れ、
少しも動くことはありませんでした。
普通は、牛が何かを察して頭を振るので、急所から少しずれることがよくあり、倒れた後に大暴れするそうです。

次の日、おじいちゃんが食肉加工センターにやって来て、坂本さんにしみじみとこう言いました。
「坂本さんありがとうございました。昨日、あの肉は少しもらって帰って、みんなで食べました。
孫は泣いて食べませんでしたが、

 『みいちゃんのおかげで、みんなが暮らせるとぞ。食べてやれ。みいちゃんにありがとうと
  言うて食べてやらな、みいちゃんがかわいそうかろ?食べてやんなっせ。』って言うたら、孫は泣きながら、『みいちゃんいただきます。おいしかぁ、おいしかぁ。』て言うて食べました。
ありがとうございました」

坂本さんは、もう少しこの仕事を続けようと思いました。

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ある学校で、保護者の一人から、給食費を払っているのに、『いただきます』と子どもに言わせるのはおかしい」というクレームがあった、との話を聞いたことがあります。
「なんという常識のない保護者なんだ!」と片付けるのは簡単です。
でも、もしもこの保護者が、この話を知っていたとしたら、どうだったでしょう?

現在の食生活は、「命をいただく」というイメージからずいぶん遠くなってきています。
そしてその結果、食べ物が粗末に扱われて、日本での一年間の食べ残し食品は、発展途上国での、何と3300万人分の年間食料に相当するといいます。

私たちは奪われた命の意味も考えずに、毎日肉を食べています。
動物は、みんな自分の食べ物を自分で獲って生きているのに、人間だけが、自分で直接手を汚すこともなく、坂本さんのような方々の思いも知らないまま、肉を食べています。
動物だろうが植物だろうが、どんな生き物であっても、自分の命の限り精いっぱい生き続けたい、
そう願って生きているんだと私は思います。

命をいただくことに対しての「思い」。
お肉を食べて「あ〜、美味しい。ありがとう」
お野菜を食べて「あ〜、美味しい。ありがとう」
そこに生まれる思いはどんな思いでしょう?

お肉を食べて「うぇ〜、マズッ!」
お野菜を食べて「うぇ〜、マズッ!」
そこに生まれる思いはどんな思いでしょう?

食べ物をいただくとき、そこに尊い命があったことを忘れずに、その命を敬い、感謝の言葉をかけてあげられる人に育ちましょう。
今日もまた、食べられることへの感謝の言葉、
「ありがとうございます。
 感謝します。
 いただきます」

食べているときの「美味しい!」という言葉。
そして食べ終わった後の、「あ〜、美味しかった。ありがとうございます。ご馳走さまでした」
という「食べられたこと」への感謝の言葉をかけてあげましょう。
もちろん、食べ残しをせずに。

食べ物が、あなたの体を作ります。
あなたの体に姿を変えて、あなたの中で生き続けます。
そして、体の中からあなたを精いっぱい応援してくれています。

あなたができる最高の恩返しは、たくさんの生き物たちから命のバトンを託されたあなたの命を、
いっぱいに輝かせること。
喜びに満ちた人生を過ごすこと。

それが、あなたと共に生きているたくさんの命たちが、いちばん喜ぶことなんです。
みんなの分まで、命いっぱいに輝きましょう。

…これが、私が教師として、プロとして、
目の前にいる子どもたちやその保護者に
伝え続けていきたいメッセージです。
 2012年11月2日(金)
 大荒行堂に入行しました。
 10月29日、檀信徒の皆様に見送られ千葉県中山法華経寺に向かいました弟子・海頌が、11月1日、念願の大荒行堂に入行しました。来年2月10日まで百日間続きます。
 
初めての行なので、本人も家族も不安の中での入行会(にゅうぎょうえ)でしたが、志願してのことですから、あとは、無事、成満(じょうまん:終わること)することを祈るだけです。
入行会は、祖師堂にての法要、奥之院、遠寿院等を巡拝したのちに、瑞門(右の写真)をくぐると、その場から修行が始まります。尚、瑞門は、来年2月10日まで開かれることはありません。

荒行は、早朝2時30分起床、3時の水行に始まり、深夜11時の水行まで1日7回の水行。それ以外は、お堂に籠り読経の繰り返しです。詳しいことはこちらをお読みください。

2012年10月29日(月)
 いよいよ大荒行堂に向けて出発しました。 
 
本日、午前11時43分の新幹線で、いよいよ法筵寺弟子・海頌(かいじゅ)が大荒行堂入行に向けて出発しました。前日、住職とともに、御祈祷の守護神であられます鬼形鬼子母神様にご法味を捧げ、荒行堂に持参するため、丁重に包みました。(首から下げている白包みがそうです)
 11時には、多数の檀信徒の方や、名古屋修法師会会員の僧侶の方、有縁の僧侶の方が集まられ、名古屋修法師会・玉森潮慎会長より、激励のご挨拶を頂き、全員でホームへ向かいました。
 比較的ホームは空いていたために、皆さん、個々に携帯やカメラで一緒に写真を撮っていました。時間となり、3名は神妙な面持ちで車両に乗り込み、いよいよ始まる行堂へと向かいました。
30日は、荷物搬入や荷物検査。インフルエンザの予防接種もあるようで、31日は、先師法要と続きます。

 2012年8月20日(月)
 第35回七面山登詣団参
  8月18日〜19日、第35回目となる七面山登詣団参が開催されました。
今年は、30名が登詣し、6名が麓に宿泊しました。今年20年ぶりの方や、初めての方も数名おられましたが、特に、この時期は、暑さも厳しいのですが、登り始めると意外と風も涼しく、個々の体力差はありますが、それぞれに登ることができました。
 山頂でのお話の中で、前日は、大変な雷雨となり、停電も続いていたそうですが、我々が登っている間は、遠くで雷鳴が聞こえる程度で雨にも降られず無事、登詣できました。
 年に一度の七面山登詣団参ですが、それぞれの願いを込めて登り、山頂の敬慎院にお祀りされている七面大明神様にお参りをしますが、汗を流した分だけ、その思いも大きです。

 また、今回は、麓にある白糸滝にも、滝行を希望する方がおられたので。住職の元、一緒にお滝にあたりました。
 参加されました方は、登詣された苦しさと感激を、日常に生かして頂ければと存じます。もちろん七面大明神様のご加護も一層頂けるものと思います。
お疲れ様でした。
 
 2012年5月10日(木)
 第1回白衣縫製(制作の日)
  法筵寺の弟子:鈴木海頌が、本年(平成24年度)の日蓮宗大荒行堂に、初行(初めての修行)を念願し準備を進めています。その一環として、修行中に着用する白衣を檀信徒の方が手作りで縫製して頂けることになりました。
その第1回目が、本日、開催され9名の方々がお集まり頂け、制作に取り掛かりました。
先月から、布地や型紙などの準備試作をお二人の方により行われていましたので、当日は、それぞれ卓上ミシンを持ち込んでの作業となりました。
30枚余作るとのことで、引き続いて行われることになります。

又、当日、前総代長さんご夫妻も来寺され、皆さんを激励されておられました。

ちなみに、次回は6月7日(木)です。
今後とも、よろしくお願いします。


 2012年5月6日(
 5月盛運祈願会
  今日の盛運祈願会(毎月のお参りの会:第1日曜日開催)は、やはり連休最終日なのでしょうか、子供さん連れの家族が少なく、法要中、赤ちゃんや子供の声がなく静かでした。いつもなら、法要中でも泣き声や、子供さんの声が時々、聞こえるのですが、それがないと反対に気になるから不思議ですね。
 今日の法話は、日蓮大聖人のお言葉から「獅子奮迅之力:ししふんじんのちから」のお話と、誰でもが、すぐにラッキーになれるトイレの神様:うずさま明王のお話もしました。
トイレを綺麗にしておくこと、掃除を怠らないことは、誰も知っていますが、心こめて行うことは、もちろんですが、いかに家族にも、又、金銭的な面でも大切かをお話しました。すぐに誰でもが実行できることですから、始めましょう。
2012年4月8日(
 お釈迦様降誕会「花まつり」 
4月8日は、お釈迦様の誕生日です。
 お釈迦様は、誕生されて、すぐに七歩歩かれ、右手で天を指し、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊:てんじょうてんげゆいがどくそん」を発せられました。そのまま読めば、天に地にも私が一番尊いとなりますが、実は、私たちすべてのものが尊いのだということです。ゆえに、いかなる人にも尊き魂が備わっているので、それに気づきましょう。ということを伝えたかったのです。
 でも、素直に信じられないので、苦しむのです。この世で最大の苦しみとは、自分が救われていないということですが、本当は、初めから救われているのです。それに気づけさえすれば、すべては変わります。
 今日は、境内に「花御堂:はなみどう」を安置しました。初めて行うことなので、果たして、どれだけの人に、甘茶を掛けて頂けたかは分かりませんが、地道に行うしかありません。



2010年2月26日(
 1/2成人式(10歳) 
先日、知人の方から、メールで近況が送られてきました。

その方には、10才になるお子さんがいますが、自閉症です。
お子さん:R朗君と呼びますが、彼とのやりとりや日常生活は以前より紹介してくれていました。そして常に、彼の会話には、とても心を洗われ、時には涙しホッとさせてくれていました。

インターネット上では、そのことを時々、紹介されていたのですが、諸事情があり、今は読むことがでませんが、久々にメールで送って頂いたので紹介します。


学校行事で行われた「1/2成人式(10歳)」での出来事です。


体育館のステージで先生方、友人、親族見守って頂いた方々に10歳になれた今日の感謝を伝え、将来の夢を宣言しました。

R朗は、個別支援級からはただ一人…

個別級の担任の先生も心配していました。
普通級に交ざっての練習は、本当に大変で、たくさんの人達の前で語るのは苦手な上、大きな声で話すなんて…個別支援級で知ったお友達を前に練習すると、いつもの元気よさが出ますが・その元気も何処へやら…モジモジと体育館では中々上手く出来なかったようです。


私もドキドキしながら
w(*゜o゜*)w R朗の順番を待ちました…

一礼すると

「将来はぁ〜………日本の………テコンドーの代表選手としてオリンピックに……………出たいです!そして、今まで通り好きな絵も描いていたいです!」

(^-^)ノ~~


ゆっくりで…途切れ途切れではありましたが…大きな声で頑張りました。

一人一人への拍手は、時間の関係上…心の中で…と会が始まる前にアナウンスがありました。


…一方、私は温かい涙が後から後から…とめどなく…(ノ_・。)


同時期…会場からは
何人かの幼稚園時代のママ達からは拍手喝采


そして、他からも拍手が追いかけっこするように…


拍手は心の中だけで…はR朗の時だけ完全になくなっていました。


終わりにR朗から初めて感謝の手紙を受け取りました。アナウンスのタイミングが遅かったせいか…二つ折の手紙を開くと…

ひらがなだらけの手紙…開くと同時に、同学年の司会の男の子が「家でお読み下さい。」

ひらがなだらけの手紙はアナウンスが流れる頃には一気に私の心に染み渡り…

どうりで…「家でお読み下さいなんだわねぇ」と妙に納得…鼻水混じりの涙が…またまた後から後から…。


「おかあさん、ぼくのおかあさんでありがとう。まいにち、がっこうにつれていってくれて、やさしいおかあさんでありがとう。」


「おとうさん、まいにちつかれているのにれんしゅうしてくれて
ぼくとあそんでくれてありがとう。」


「うまれてきて・しあわせです。」


R朗(※ひらがなで本名)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

心より感動し神様に感謝しました。


以上です。絵はR朗君が、8歳前後にかいたものです。
 2012年2月13日(月)
 平成24年開運節分祭
恒例の開運節分祭が無事終了しました。
準備から当日に至るまで、声があまり出なく、当日の夢でも、その不安でうなされていましたが、法要、水行、個別祈祷等、9時30分〜午後2時迄の行事を済ませることが出来て良かったです。むしろ、その声の方が良かったと言われましたが・・・

今年も、初めての方や子供も多く参詣して頂き感謝です。
「こんな楽しい行事があったと初めて知りました」という方や、「来年も来たい」という子供やご老人まで、開催する私にとっては、この言葉こそ最大の事で、お手伝い頂いた檀信徒や家族も疲れが癒されます。子から孫へと信仰の相続をしていくことが重要な事ですが、まずは、楽しいからお寺へいこう!これがなくては、誰も来てくれません。そんな風にいつも考えています。





今回、行事にお手伝い頂いた僧侶の方が、自分のホームページのプログに、今回の行事のことをUPされましたの引用させて頂きます。

タイトル〜帰宅後にお寺の話で花が咲く〜

 今日は、自分自身も楽しみにしている南区法筵寺さまの開運節分会。
9時半から法要を営み、10時半から水行。そして11時から個別祈祷が始まる。
11時頃には家内と子どもたちも到着。
子どもたちが楽しみなのは、御祈祷ではない。
法筵寺さまでは、個別祈祷が終わる度に御祈祷を受けられた方々が順次豆まきをする。
それを拾うのが個別祈祷を待つ参詣者となる。
うちの子どもたちの御祈祷の順番は一番最後。
最後だからこそ豆は十数回拾う事ができる笑顔で大きく手を広げ、『こっちだよ〜』と豆をまく人にアピール。
 
豆まきは終わると今度は福引き。
「任天堂3DS」は当たらなかったが、帰宅してもお寺であったことを嬉しそうに話す考えてみると、今日参詣した沢山の子どもたちは、家に帰って同じように法筵寺さまでの出来事を話すのだろう。
円乗寺の新春初祈祷会に参詣した子どもたちは、同じように帰宅後、家族で会話をしてくれるだろうかと考えてしまった。
まずもって法筵寺さまは、親が連れて行きたいと思うお寺であって、子どもが飽きないお寺であることは間違いない。
親からするとお参りに連れていって待ち時間に飽き、騒ぎだし迷惑をかけないだろうかと心配をする。
法筵寺さまは、ご住職が子ども大歓迎。そしてご家族。さらにはスタッフの皆様からも同じ気持ちが伝わってくる。
住職の思いをみんなが共有し合って営む節分会。
お参りにいって帰って、夕食はお寺での思いで話で華が咲く
私の目指すお寺像です。                                     以上

ご参詣頂いた皆さん、お疲れさまでした。
 2012年1月9日(
  成人の日
  今日は、成人の日です。平成3年4月〜4年3月迄に生ま れた122万人が新成人を迎えました。毎年、少子化の影響 で減少しているそうです。
 今年も、お寺の檀家さんの娘さんが、成人式を終えられ た後に、ご本尊様、ご先祖様にご両親と共にご報告の参  詣をされました。(写真)

 TVなどでもニュースで、、成人式を取り上げていますが、 特に、今年は昨年の東日本大震災被災地での成人式で  は、友人の遺影と共に成人式に参列する姿を見ると熱いも のが込み上げてきます。参列している新成人も、それ以上 の思いがあったはずです。
しかし、一方では、まだ式を妨害したり、大勢で騒いでいた する者もいるようです。同じ成人式を迎えながら、あまりの 違いに複雑な思いがします。
 自分が若かった頃はどうであったかと、しばし反省も含め ながら、これからの社会を背負っていく若者たちに期待を したいと思います。こんなことを言うようになったのも年をとったせいでしょうね。